タオは元気です
拝啓 たんぽぽの里様 ご無沙汰しております。
タオを貰い受けて、はや3年が経過致しました。
タオは、元気に暮らしておりますのでご安心下さい。
里親としてタオを引き受けた時、タオの年齢はよく分かりませんでした。スタッフの方から、最初、8歳ぐらいかなと言われましたが、次に訪れた時には5歳だと言われました。
我が家にやって来た時には、耳の中は真っ黒で、口臭も酷いものでした。
近所の動物病院に連れて行って、耳の洗浄をしてもらい、口の中も診てもらいました。
歯垢が黄色く分厚く付着していたものだから、先生に言われて、手術で取り除きました。
口の中のケアは、今でも毎日続けています。ただ、私が腰椎を傷めてしまったものですから、体調が思わしくない時などに、それが出来ないのが気になっています。
初めの1年ほどは、たびたび、肛門から赤い血が流れて出たり、肛門腺が膿んだりしたので、放射能の影響があるからかと悩みました。
肛門腺が硬く詰まったりして診てもらった時、先生に年齢を聞くと、肛門腺が詰まるのだからそれなりの年齢でしょうと言われました。すると5歳はないかなと思います。
5歳だと、保護された時に2歳で震災の時には1歳だったということになります。1歳の猫が福島の寒い冬を乗り越えられたか分かりません。
でも、4歳の猫だって同じですね。
タオは、一度、たんぽぽの里から別な人へ里子に出されたのが、3年後にたんぽぽの里の玄関前に捨てられていたのです。酷い話ですね。
それを私が再度引き取りました。
辛くて波乱に満ちた猫人生です。
肛門腺には、ウイルスが巣食っていることも考えられるので、片方の肛門腺を取り除く手術をしました。
春先は、青い眼が充血して赤くなることもありました。2年間ほどは、抗生剤と注射と目薬が欠かせませんでした。
でも、肛門腺の手術をしてからは、あまり病気をしなくなりました。特に最近は、動物病院に行っていません。
たまには、先生に会わなければならないな、などと考えています。
あれから、3年経ちましたから、若くて8歳、歳をとっていると11歳になっていることになります。
どっちにしろ老猫の時期になって来ていますが、元気なことは元気です。
限りなく甘えて来たり、家中を猛烈なスピードで駆け回ったり、キャットタワーに駆け上がったりで、起きているときは大騒ぎをしています。
ただ、近ごろはよく寝ています。タオは、寝ている時は、ほんとうにぐっすりと寝ていて、無防備極まりません。
こんなので、よく震災後の福島で1年間も生き残れたものだと不思議になってしまいます。
私も妻も、タオと同じように歳をとって来ました。年齢にしたら同じようなものかも知れません。まだ、タオのほうが若いかな。
ともかく、タオが最期まで幸せに過ごせるように暮らせたらなと思っています。
タオを貰い受けた時の譲渡書に、定期的に近況を知らせることとの約束がありますので、お知らせ致しました。
それでは、失礼致します。 敬具
※たんぽぽの里のホームページ
父の誕生日
今日6月3日は、死んだ父親の誕生日だ。生きていれば、ちょうど100歳になる。
自分の腰の痛みにばかり気を取られていて、そのことをすっかり忘れていた。
日本軍の兵士として、中国から仏印に進駐し、4年間を過ごした。最初は工兵隊、次に憲兵隊に抜擢されたが、そのせいで、敗戦後捕虜となり、内地に送還されてからは巣鴨プリズンに1年間収容されていた。
ほとんど怒ったことのない人だった。
長男だった私は、反抗する必要など何もないのに、無理矢理に楯突いて父親の思いを裏切って生きてしまったように思う。
何不自由なく育ててくれた。
67歳で亡くなってしまった。
昭和天皇より早くに亡くなってしまった。
いまだにそれが悔しい。
※リンク
心配事ばかり
まず、蕎麦屋に昼食に行ったあと、娘一家が帰ってしまったので、とても寂しい。何だろう、この感情は?
孫たちに会えないから寂しいというのではなく、もう会えなくなるかもしれないという感情がいつも湧いて来てしまう。
昨日は、コルセットを装着して礼服を着て都内まで赴いた。
溜池山王のホテルで豪華な結婚式だった。ともかく出席できたので、弟たちには義理を果たすことができた。ホッとしている。
妹の旦那さんである義弟から、宴会場の隣の席で奥美濃の山に今度行きましょうと誘われた。義弟は大学時代はワンゲル部の部長を務めた山男だ。腰が治ったら行きたいと返事をしておいたが、どうなることか。
妹の話では、少し認知症になっているとのことなのだ。
今朝、彼が facebook に昨日の結婚式の様子をアップしていたのだが、それを見て唖然としてしまった。
まず第一に、インターネットなのに家族や親戚の顔写真をそのままどんどん載っけている。
次に、若い女性の写真がとても多い。
極め付きは、私の娘一家の写真を姪の姉一家と紹介していること。姪の妹一家の写真を従姉妹一家の写真と紹介していることだった。
ちなみに姪は長女だから姉はいない。
山で道に迷ったりしたらどうしようもないので、義弟と山に一緒に行くのはやめておこうと思う。
我が妹のことを思うと、暗澹とした気持ちになってくる。
腰の痛みは依然として治らない。
今朝起きた直後は、もう大丈夫なような気がしたのだが、時間が経つに連れて痛みが増してきた。特に右の腰に神経に響くような痛みが走る。
どうしようもないので、腰椎骨折直後のようにコルセットをしてストックを突いて歩かざるを得ない。
この痛みは快復するのだろうか。
このままだと農作業もできないし、山にも行けない。
トマトとキュウリのためのネットを張らなければならないし、夏季集中山行の計画も立てなくてはならないのに、これでは無理だ。
クライミングのジム練もできない。本を読むのにも集中することができない。
中国語講座にも出席できない。
今日は川崎で、差別排外主義団体の「日本第一党」(「在特会」が名前を変えただけ)の集会が予定されているので、その集会への抗議行動に参加するつもりでいたのだが、それもできなくなった。
こんな身体では、市民運動もままならない!
昼は娘一家と蕎麦屋に食事をしに行き、その後別れたのは、最初に述べた通り。食事を終えると、奥さんは、やはり三鷹にジャズアンサンブルの練習に行くと言って、私に車で駅まで送らせていなくなってしまった。
どこまでも我が道を突き進む奥さんのこともかなり心配。
息子は、今朝早く、中国に戻ってしまった。
息子の娘である中国にいる3歳の私の孫が、裸で寝ているというので、昨晩は奥さんと息子が言い合いをしていた。
裸で寝させているなんて信じられないと奥さんは息子に忠告する。息子は、自分が裸で寝ることもあるようなので、屁理屈をこねて反論する。
中国にいる息子のお嫁さんも、息子のせいだと言って責めているらしい。
これは、私も衣服を着けて寝させて欲しいと思う。
その息子が、我が愛車のタイヤを全部新しいものに交換してくれた。
どうしたのだ? 親孝行と思って納得すればいいのだろうか。
あまりに金回りがいいので、心配になる。
最後に、結婚式で姪のお婿さんの御両親の荷物を、間違えて持ってきてしまったことも付け加えておく。
明日、姪たちに送り届けなければならない。
腰の痛みのせいで、いろいろと心配事が次々と出てくる。
明日は姪の結婚式
明日は、姪の結婚式。腰の痛みは収まらない。
朝より少しはいいかも知れない。明日になって見なければ分からない。
中途半端に痛くて、コルセットを着けたまま電車で都内まで行かなければならならなくなったら最悪である。
礼服は着ていくから、荷物はすべて奥さんに持ってもらうことになる。
明日の結婚式に出るというので、娘一家がやって来た。
孫娘二人の子守として、娘の旦那さんも一緒に結婚式に出る。
偶然だが、息子も中国から帰って来た。男のいとこは姪から結婚式には呼ばれていないので、息子は明日は一人で家にいることになる。映画でも見るようなことを言っていた。
孫娘は、それぞれ4歳と10ヶ月だ。爺ちゃんとしては、やはり無条件で可愛い。
下の孫娘は、猫のタオをハイハイで追いかけ回していた。タオは恐れをなして逃げ惑っている。精神年齢が似たようなものなのだろう。タオの方が少し上かも知れない。
姉ちゃんが、妹の面倒をよく見ている。ほんとうに大きくなった。
明日は、早いのでもう寝ることにする。
腰が心配なので、今夜は風呂に入らずに寝ることにする。
腰の痛みが消えていますように!
腰の痛みと愛車の12ヶ月点検
腰の痛みが治らず、午前中、整形外科に行き、レントゲンを撮る。骨に異常はない。
痛み止めの薬と、筋肉の緊張を取る薬をもらい、ひとまず安心して家に戻った。
我が愛車は、スバルのR2四輪駆動スーパーチャージャーだ。この6月で10年乗っていることになる。
もう、スバルはR2を作っていない。というより、軽自動車を独自に作ってはいない。ダイハツが作った軽自動車を、名前を変えて販売しているだけだ。
だから、このスバルのR2は、スバルが独自に開発して作った最後の軽自動車ということになる。
販売店に車検や点検で持っていくと、決まって新しい自動車を紹介される。
でも、乗り換える気はまったくない。お金がないし、車を運転する年月もそんなに残されているわけではない。
それより何より、私はこの車にとても愛着があるのだ。
スパーチャージャーだからとても馬力があって、加速度もかなりのものだ。軽自動車のスピードとは思えない速さで、坂道もなんのストレスもなしに登ることができる。
四輪駆動だから、雪道でも安定したものだ。
希少価値もある。スーパーチャージャーの四輪駆動のR2って、中古市場にもあまり数がない。
私にはこの車で十分なのだ。乗り潰す気でいる。
で、今日は、前々から予約してあった12ヶ月点検があった。ほんとうは点検なんかしたくない。お金ばかりかかるので放っておきたいのだが、スバルの販売店からやいのやいのと催促の電話が来るのだ。面倒だからその言に従ってしまう。
安全には代えられない。
腰の痛みを我慢し、腰椎骨折以来のコルセットを装着して、R2の運転席に座ってスバルの販売店に出かけた。
12ヶ月点検とエンジンオイルの交換とオイルフィルターの交換もやってもらい、合計2万円の出費であった。自動車というのは、購入するよりも維持をするのにお金が掛かる。まったく嫌になる。
点検が終わり支払いの時に、車の右後ろのタイヤ側面に傷があることを告げられた。ゴムに亀裂が入っていて、中に達しているが膨らんではいないので、今すぐどうにかなるというのではない。でも、交換するならしたほうがいいようなことを言う。四輪駆動なので後ろ2本を同時に代えたほうがいいと言う。
2本で締めて2万9千円ちょっと。おいおいオイ! 君はなんてことを言うのだ!
そのまま、タイヤのディーラーに赴く。
古い型のタイヤなので在庫が1セットしかない。4本でしか売れないとのこと。元々の値段は5万円以上なのだが、今は4万円で取り付けられるという説明だった。
店員は、私の家族の車のタイヤがこう言う状態になっていたら、きっと取り替えることを薦めますとのたまった。
バカバカしくなって、腐った気持ちのまま帰って来た。
このままでしばらく乗り続けようと思う。パンクした時はした時だ。タイヤが膨れて来たら、考えることにしよう。
腰が痛い。
自動車を点検すると、いいことは何にもないようだ。
腰の王
曲がった背骨の湾曲が、上からの重力を歪な形で下に伝えて行く。
どんよりとした痛みが、腰骨の上辺に澱み溜まり込んで、腐臭を発している。
この湾曲した空洞の宮殿の玉座に腰の王は鎮座して、腰骨から脳髄に至る神経を睥睨する。
絶望の王よ。あらゆる欲望を断ち切って倦むことのない存在よ。
生きる希望を捨て去り、可能性のすべてを奪い取って平然としている。
この窒息した世界から抜け出して、少しでも息付ける場所を求めて、俺は立ち上がろうとしたのだが、ドアは牢獄のように閂で閉ざされたまま、外の世界さえ伺うことが叶わなかった。
どこかに抜け道はないかと、腰骨が重なり合った路地の奥を探り回ったのだが、地獄に続く黴の生えた薄汚い階段を捜し当てただけだった。
骸骨が俺を呼んでいる。夜の向こうから、この世界にやって来て、さらに遠い夜の向こうの遥か彼方に連れ去ろうとして。
カタ、カタ、カタ。ケ、ケ、ケ、ケ、ケッ。ここには何もないよ。
空洞の宮殿に、生臭い風が吹いて行く。それは、昨日、捌いたチダイの内臓の臭いだ。俺の実現されない未来の臭いだ。
鎮座まします腰の王の竜骨の突端に釣り針を引っ掛けて、思い切り引っ張ってみた。
すると、真っ赤な神経が引き出されてグーッと伸びて来た。体液でギトギトと粘って湯気を上げている。
俺は、持っていたサバイバルナイフで、この神経を断ち切ろうとしたのだが、神経は驚いた目で俺を見つめ、次に嘲笑うような表情を浮かべたのだ。
切れるものなら切ってみろ、と。
痛みは倍増して、止まることがない。
腰の王は、さらに大きな笑い声を上げ続ける。
台所で、泡と具材を浮かべて煮立つ大鍋から黄色のカレーを皿の池に盛りつける。カレーの湯だまりから、ほおけた顔を出して俺は腰の王を飲み込もうとしたのだ。
学校帰りの道草 2
学校からの帰り道を少し外れた所に、伊予鉄道の線路が、農業用水に使われていた川を越えて続いていた。
ある夏の日だった。油ぎった川面には、キャベツか白菜の葉っぱがふわふわと漂い流れていた。
その川に架かった鉄橋の端に潜り込んで、電車の下を見たことがあった。
線路の下から頭一つ突き出して、こちらに向かって走ってくる電車を待ち構える。緊張で脂汗が噴き出してくる。直前まで、我慢して待っていようと思うのだが、怖いものだからかなり前に線路の下の空間にしゃがみ込んでしまった。
上を見上げて待っていると、電車の音がどんどん近づいて来て、ゴーッという大きな音を立てながら頭の上を通り過ぎていった。電車の下がどうなっているか見ようとしていたのだが、頭上を通過していく電車のスピードが早くて縞模様になって流れていくだけであった。
目論見は、完全な失敗だったが、ともかく走っている電車の下を、すぐ近くから見たという満足感は残った。ちょっと危険な行為だということも分かったので、同じことは二度としなかった。
伊予鉄の線路では、他にも学校帰りに、友達3人ほどで小刀を作る遊びをしたことがある。
大きくて太い釘を、どこかから探してきて、それを線路の上に置き、電車が通過するのを待つのだ。あの頃、そんな釘は、どこにでも落ちていた。
頭の中では、素晴らしく鋭利な小刀が出来上がっていたが、電車が通過した後、跳ね飛んだ釘を見てみると、なんともブサイクなひしゃげた釘になっているだけで、とても小刀とは呼べない代物に変わっただけだった。
どうしてなのか分からないが、子供達の間では、こうして線路の上に釘を置いて、電車の車輪に轢いてもらうと素敵な小刀が出来上がると信じられていた。
でも、この経験から後、もうそんなことは信じなくなった。