またしてもドジ!

今日は、早くから起きて朝食を作った。

体調もいい。

トマトと玉子の炒め物。ダイコンも刻んで入れてみた。

ネギとモヤシを炒めて、レッドペパーを振りかけ、最後にゴマ油であえる。

豚肉の薄切りがあったので、塩コショウ、小麦粉を振りかけ、フライパンで焼いてから生姜醤油をからめて、朝から生姜焼きを作ってしまった。

そのころ、やっと奥さんが起きて来る。

私は、今日は中国語講座に出席するのだ。週に一度の語学の勉強である。

酒ボケして干からびつつある脳みそを、鍛え直す唯一の手段だ。

昨晩は、今日のために、あたふたと直前の予習をした。新出単語の意味を調べ、かつては覚えていたはずの見覚えのある単語の意味も調べて、今日のために備える。

充実した夜を過ごせたものだから、頭が冴えてしまって寝つきが悪かったが、それでも清々しい朝を迎えることができた。

朝食を済ませて、猫のタオに

じゃ、行って来るね

と言って、勇んで出かけて行ったものだ。

大学に着いて、5階の教室に行ってみると、入り口から覗く教室の中が暗い。ちょっと早めに来たものだから、まだ、誰も来ていないのかな、或いは教室が急に変更になったのかと、確認のため事務室へ下りて行こうとして、やっと思い出した。

先週の授業の終わりに先生が、来週は大学の創立記念日で休みですから、間違えて来ないように、と言っていたのだ。

ああ、またしてもやってしまった。貴重な時間を無駄にして、お前は何をしているのだ!

自分にほとほと呆れながら、駅のプラットホームに立つと、目の前にヘアーサロンの広告の美女が、馬鹿にしたようにわたしを見下ろしていた。

朝からいい運動になったということだ。来週、ガンバルしかないな。

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反省ばかり

昨日は、夕方まで何も食べることも出来ずに、布団の中に丸まっていた。

 

一昨日の土曜日は、横浜でシニア運動の総会があり、総会後、軽い懇親会があった。

その場で旧知のKさんと出会ったものだから、意気投合して、どこかでもうちょっと飲んで行こうということになった。そこで、横浜駅西口の路地裏にある飲み屋で、しこたま飲むことになってしまった。

「豚の味珍」という居酒屋で、一階もあるのだがいっぱいだったので、急な階段を上って二階の部屋に入った。入り口そばのカウンターに座ると、目の前に出されたコップに焼酎の液体をヤカンから注いでくれる。

その手つきが慣れたもので、ほんのちょっとだけコップの受け皿にこぼして、なみなみとコップ一の上辺りまで満たしてくれるのだ。

ツマミは皮蛋とあとは何かを頼んだのだが、その時点でコップの焼酎を生で二杯ほど空けていたので、もう記憶が飛び始めていた。

 

Kさんとはどんな話をしたのか、断片しか覚えていない。

年金の額の少ないこととか、若い時に柿生の駅前にあった養老乃瀧で初めてKさんを見た思い出とか、Jアラートのバカバカしさとか、そんなことを話していたような気がする。

1時間か2時間そこにいて、横浜駅で別れた。私は横浜線に乗るために、Kさんは瀬谷に帰るために相鉄線へ。

 

その後は、かなり悲惨であった。

 

どこかの駅の植え込みに倒れ込んでしまい、そこから立ち上がるためにかなりもがいていた記憶がある。

駅に到着した後も、タクシーで帰宅したようなのだが、昨日の朝になって、そのことを初めて知った。かなりの泥酔状態になっていたようである。

 

玄関に倒れ込んで動かないので、奥さんは諦めて放っておくことにした。しばらくして目覚めた私は、浴室に向かう廊下でこらえる間もなく胃の中の内容物を噴水のように吐いてしまった。

大声で奥さんに助けを求めた。寝床から起き出して来た奥さんは、呆れた声を出して吐いた私の吐瀉物を処理せざるを得ないことになってしまった。

 

その後、私は浴室に入ってシャワーを浴びたまま夜中まで中で寝ていたようだ。

風呂場から出た私は、シャツとパンツ一枚で布団に潜り込んでいた。

 

朝を迎えても吐き気は治らない。胃からは白い液体が込み上げて来る。食事はまったく喉を通らない状態が、夕方まで続くことになってしまった。

右腕の肘のあたりにも、左腕にも打撲で変色した箇所と擦り傷があって痛い。

 

夜になって、一日中、所用で外出していた奥さんが帰って来た。

シュンとして改まった様子をして、かしこまっている私を前にして、

「もう、お酒は禁止だからね」

と言い渡した。

そして、付け加えて

「幾つだと思っているの。こんなことをしていると死んでしまうよ」

と断定を下した。

 

ほんとうに情け無いったらありゃしない。今回で、こんなことは何度目になるのだろう。もう、いい加減にしなくては、早々に死んでしまうことになる。

 

酒は止めることに決めた。疲れるだけだし、まったくいいことがない。

きれいな身体と精神で生きよう、っと!

 

 

そうして世界は破滅してしまった

アメリカの独裁者の頭が狂ってしまった。さも、狂っていないかのように狂ってしまった。アメリカの国民も日本の首相も、ちょっと変わった実行力のあるトリンぺが大統領になったのを歓迎した。

特に日本の首相のアンポンタンは、世界に先駆けてトリンぺに謁見に赴き、その配下になることを確約して来てしまった。もちろん、本人にヤバイなという自覚はない。

北朝鮮の指導者キムポンポンは、独裁で気に食わない配下の者は、見せしめのように銃殺にしていたのだが、体制維持のために民主主義的な平和主義者を気取ることにした。

アンポンタンはキムポンポンが嫌いだ。だから攻撃一筋で、話し合いなど絶対にしない。危険な男だから会うのも怖い。

アメリカの大統領トリンペと北朝鮮のキムポンポンは、互いに口汚く罵り合っていたが、裏ではコンタクトを取って妥協点を見つけようとしていた。

共にふんぞり返った独裁者だが、アンポンタンと違って政治的な外交能力には長けていたのだ。

自称民主主義国家の首脳同士は、お互いの利害が一致して、韓国のムンジェさんの仲介のもと、首脳会談をやることに決めたのだ。

危険なオオカミが2匹、喧嘩をするのではなく話し合いをするということになったものだから、世界は喜びに沸いた。これで平和が訪れると。

気に食わないのは、アンポンタン。平和になったら、北朝鮮からの危機を訴えて政権維持を図ることができなくなってしまう。

それから、アメリカ国内の軍産複合体がこの流れを好ましくは思わなかった。なぜなら、平和であれば武器が売れないから。

アンポンタンが気に食わないのに比べて、この軍産複合体が好ましく思わなかったことは、百倍も恐ろしい事態だった。なぜなら、トランペ政権の長官たちは軍人出身者が多かったし、トランペ自身も軍隊が大好きだったのだから。

ついでを言うと、トランペのペット犬のような日本の首相アンポンタンも、自衛隊が大好きだった。

そして何より、アメリカ合衆国という国家が、戦争が大好きな国だった。自由と民主主義のためなら、どんな戦争もやったるぜというのが、アメリカの良心なのだ。

戦いは、いつも先制攻撃だった。

キムポンポンが、核開発の放棄を決めたので、トランペは首脳会談に応じることにした。

会談は友好的雰囲気の中で行われ、会談の終了後、首脳2人が並んで、共同コミュニケを発表した。

北朝鮮に対する制裁は解除し、体制の維持を保証する。アメリカは、北朝鮮の発展のために今後20年間に渡って経済的援助を行う。両国は、相互に交流を密にして、今後ますますの友好を深めていくものとする。

そして、互いに抱擁を交わして会談は成功裡に終わった。

それから、1週間が経った、ある朝、トランペがテレビを通じて声明を出した。

北朝鮮のキムポンポンは、首脳会談での合意を反故にして、密かに核開発を続けており、情報によると、この数日、我が国に対してICBMを発射する準備をしているというのだ。だから、致し方なく、先ほど、北朝鮮に対して核攻撃を命じたと、悲痛で卑猥な声で宣言した。

その後の展開。

北朝鮮平壌に核弾頭が落とされ壊滅的な被害。

アンポンタンが、これで拉致家族問題が消し飛んだと喜ぶ。

北朝鮮が反撃して、10数発の核弾頭が、沖縄と横須賀とアメリカ西海岸のロサンゼルス、サンフランシスコ、東海岸のニューヨーク、ワシントンに向けて打ち出された。

自衛隊は反撃して撃ち落そうとしたが、とても間に合わなかった。

沖縄の嘉手納基地のある周辺が廃墟となり、横須賀が全滅した。ロサンゼルスとサンフランシスコも全滅し、ニューヨークとワシントンにも核弾頭は到着して2都市ともに廃墟となってしまった。

アメリカ軍の猛反撃のせいで、北朝鮮の国土では至る所でキノコ雲が湧き上がることになってしまった。この時点で、国家としての北朝鮮は消滅してしまった。キムポンポンの行方も分からなくなってしまった。恐らく、核攻撃のせいで灰となってしまったのだろう。

アメリカも無事ではいられなかった。都市が4つも壊滅的な攻撃で廃墟となり、100万人を超える死者が出たので、国内はパニック状態に陥り、国家としての機能は当面麻痺してしまったのだ。

日本はというと、まるで想定外の被害を被ったとでもいうような政府の態度だったが、溢れる死者と難民と交通網の麻痺、流通網の破壊によって食料の運搬も不可能となった。被害者の救出もできず、なおかつ、病院も壊されたせいで運び込まれた患者の手当もできない状態に陥ってしまった。医師もかなりの数が犠牲となった。

食糧は不足し、疫病が蔓延して阿鼻叫喚の様相を呈したが、アンポンタン内閣は、成す術もなくただ茫然自失の体を晒すのみであった。

核爆発のせいで、放射性物質が世界中に拡散され大気中の放射線量は驚くほど上昇してしまった。

おそらくは近い将来、人類は放射能に蝕まれてこの地球上から姿を消してしまうことになるのだろう。

 

妄想をほしいままにしているうちに自分が恐ろしくなってしまった。このような破滅的な展開にならないように、アメリカと北朝鮮の首脳会談が成功することを心から願う。

 

 

「老人ホーム」ビジネス

先日、郵便ポストに、近くの総合病院の隣に建てられた介護付有料老人ホームのパンフレットが投函されていた。

この総合病院は、町田市北部の地域医療を担っている中核病院として名前が知られていて、私も昔は通院していたことがある。パンフレットの航空写真で、すぐにその病院だと分かった。

病院が老人ホームの経営を始めたのかなと思ってパンフレットを読んで見ると、経営はその病院ではなく、全国に名前の知られた警備会社であった。

ただ、この老人ホームは、この病院と提携しているようで、そのことを謳い文句にしていた。

 

パンフレットの中を見て、腰を抜かしてしまった。

なんと入居一時金に5,000万円から7,500万円ほど掛かることが記されていた。さらに、この一時金の他に敷金と毎月の管理費用が掛かると記されていたのだ。

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私は、開いた口が塞がらなくなった。

いったいどのような金持ちの老人が入居するのだろう。

毎月の管理費については、パンフレットのどこにも書いていなかったが、15年以上前、脳溢血で倒れた実家の母親を引き取るに当たって、介護療養型医療施設や介護老人保健施設を探して歩いた時に、毎月、20万円から30万円ほども掛かることを知って、そのあまりの高さに愕然とした覚えがある。そのことを考えれば、おそらくは、その額と同じかそれ以上の金額を払わなければならないのだろう。

 

私も妻も、これからますます老いが進んでいく自分たちのことを考えねばならない。妻曰く、どこの老人ホームに入るのか決めておかなければいけないわね、と。

面倒で、辛くて、悲しい話だ。しかし、子供達に迷惑が掛からないようにするためにも、まだボケが進んでいないうちに、できるだけのことはしておかなければならない。さて、どうしたらいいのだろう。

パンフレットに出ているような介護付老人ホームは、今の私たちにとっては、とても手が届かない。

 

下流老人』という本がある。それを読むと、私などは今のところまあまあ穏やかに暮らしているので幸せなのだろうなと思う。住む家にも食事にも苦労することはない。子供たちも、概ね順調に育ち、みんな独立して家を出て行った。引きこもりやニートになった者はいない。

でも、今後は分からない。いつ何時大病を患って動けなくなるかもしれない。私か妻のどちらかが先立って、後に一人残されることになるかもしれない。可能性の話ではなく、時間が早く訪れるか少しばかり遅くなるかの違いだけで、そんな事態は必ず訪れる。

西部邁が、多摩川自死したのも、分かるような気がする。

 

しかし、この国は、昔から老人にどのような死を迎えさせようとして来たのだろうか。介護保険料だって、少ない年金の中からかなりの額を徴収しているし、その内容も死んだ母親のころよりずっと個人負担が大きくなっているように思える。介護保険導入の最初の目的は、家庭での介護には限界があるから、国や行政がサポートをしようということだったはずなのだ。

それが、いつの間にか、その方向で充実して行くのではなく、家庭や家族ができるだけ面倒を見る方が幸せなのだという方向になって、昔に戻って来ているかのようである。

だから、老老介護で疲れ果て、片方がもう片方を殺してしまったり、二人で亡くなってしまったりする。老人ホームでは、職員が陰湿ないじめをしたり、あげくに殺してしまったりする事件まで起こっている。

保険料は上がっているのに、介護の内容は劣化し、老人ホームの質も格差が広がって、パンフレットのような金持ちだけが入居できる施設とそうではない施設に分けられて行く。

老人が分断されている。

 

すべての老人が安心して老後を過ごし、そして尊厳を持って穏やかな死を迎えることのできる社会であって欲しかった。

ずっと昔から、私の若い時から、そのことを期待して来たのだが、いつになってもそんな社会にはならなかった。

いつまで待たせるのだろう。

この待機は、まだまだ続くのだろうか。

老人ホームが、金持ちだけが対象のビジネスなどであってはならない。金儲けの手段などであってはたまったものではないのだ。

 

 

 

韓国映画『タクシー運転手-約束は海を越えて』

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シネマート新宿で、韓国映画『タクシー運転手』を見て来た。

1980年5月に起こった光州事件を扱った映画だ。

ソウルのタクシー運転手を演じたソン・ガンホは、いつもながら素晴らしい演技を見せてくれた。彼がいなければ、この映画の輝きも半減していただろうと思う。日本には、彼のような俳優はいないし、この映画のような現代史を扱ったエネルギーに満ち溢れた映画も見当たらない。実に残念である。

光州事件が起こった時、私は、29歳であった。だから、この映画に描かれている諸々の事象は、国は違うが私の若かりし時に重なっている。

全斗煥が軍事クーデターを起こし、戒厳令を敷き、韓国における民主化運動を弾圧したことが、この映画を見て記憶の中に蘇ってきた。光州事件は、その象徴として私の中の記憶に残っている。

日本には、安保闘争三里塚闘争があったが、光州事件のような民衆が立ち上がり軍と衝突して、多数の犠牲者を出したというような、その結果として、民主化を勝ち取って行ったというような歴史がない。

おそらく、そのような体験の差が現在の韓国と日本の民主主義の違いになってしまったのだろうと思えてしまう。韓国の民衆は、権力者の不正を糾弾し権力の座から実力を持って引き摺り下ろしてしまうし、司法や検察もそのことに躊躇しない。

ひるがえって日本はというと、すべてが政権の思うがままで、嘘を重ねても私腹を肥やしても、権力を持っている限り、安泰に過ごせるようである。民衆は、安穏の中で惰眠を貪っているがごときだ。

光州事件を描いた映画は、初めて見た。

光州市街を軍の兵士に追いかけられて逃げる学生たち。軍隊と対峙して抗議の声を上げる民衆と学生たちの様子、そして衝突の有様があまりにリアルであったので、かなりの衝撃を受けてしまった。軍の民衆に対する発砲と、私服兵士による暴行と虐殺にも言葉を失ってしまった。

当時、光州事件を報道するニュース映像で、民衆と軍隊が衝突する映像は見たはずなのだが、この映画で感じたほどの衝撃は受けなかった。韓国の民主化運動を気には掛けていたが、おそらくは、私にとって、光州事件対岸の火事であったのだろう。

若いころに取り残したままになっている韓国の民主化運動について、今一度、学び直してみようと思う。

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シネマート新宿の掲示板に貼ってあった「映像新聞」の解説。



「アルプス灯会」テント点検

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日曜日は、登戸駅の近くの多摩川の河原で、私の所属している山岳会「アルプス灯会」のテント点検があった。

 

第1回目のテント点検は、装備係の呼び掛けで試しにやってみようというのでやり始めたものだ。4年経った今年は恒例の会行事と呼べるまでに定着した。

せっかく山にテントを持って上っても、いざ設営して見たら、テントが破損していたらお話にならない。特に冬山などであったら命にかかわることになってしまう。

そういう意味もあって、登山シーズンの始まるこの時期に実施している。

 

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10数張りあるテントを3班に割り振られた仲間が、分担して手際よく確認して行く。

まずテントを設営する。様々なテントをいちどきに設営できるのは、やはり山岳会ならではのことで、個人ではとても無理である。

テント一つ一つ、設営の仕方が違うので、それを確認することも出来る。また、テントを張ったことのない者や不慣れな人にとっては、テント設営を学ぶ機会にもなっている。

次に不具合のある部分がないか確認して行く。ポールは曲がったり折れたりしていないか、テント本体が破れていたり穴が空いていたりしないか、張り綱はあるか、ペグの数は足りているか、フライシートは大丈夫か等々、順番に調べてチェック表に記入して行く。

その表を基にして後日、修理をするのだ。

 

昼過ぎには、テント点検そのものは終了。河原に敷いたブルーシートに座り、仲間20人ほどでお疲れさん会が始まった。

 

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河原でのテント点検や芋煮会は、普段なかなか山に行けない会員もやって来て、顔合わせと交流の場となっている。

缶ビールと干物、持ち込んだ七輪の上で焼いたシシャモや椎茸を肴に、和気藹々と2時間ほど山の話題やロープワークなどについて語り合い楽しい時間を過ごすことができた。

 

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最後に集合写真を撮って終了と相成った。

 

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その後、まだ飲み足りない者たちは駅近くの中華料理店で、更にオダを上げることになってしまった。これについては、ちょっと反省。

 

 

 

 

学校帰りの道草 1

小学校からの帰りは、いつも何人かの友だちと寄り道をしながら帰ったものだ。コースはいろいろだったが、映画館「第一大坪座」から築港の橋を渡り、義農公園の脇を通って、小川に沿って帰って行くのが定番だった。

 

映画館前の本屋に立ち寄るのは、いつものことだった。

その日も、悪友のミナトとモモダの3人で本屋の間口で、ヌードのグラビア雑誌を立ち読みしていた。

なんだか和服姿の女性が多くて、前をはだけたり、裾が乱れて横ずわりをしているような写真が多かった。小学校3年か4年の悪ガキ3人が、そんなグラビアを眺めて、大声でギャーギャー喚いているものだから、店のおばさんがハタキをパタパタ振るって、わたしたちを追い出しに来たものだ。

おばさんはとっても迷惑だっただろうと思う。

店に来て静かに立ち読みをしている大人の客たちのそばで、そんなふうに小学生が騒いでいたら、客はうるさくて本を買わずに立ち去ってしまう。

悪ガキ3人は、そんなことを思いやるような知性を持っていない。おかまいなしにいつまでも大声で、オッパイがどうだ、裸だぜ、いやらしいよな、などと興奮して叫んでいるのだ。

おばさんが迷惑がるのも当然だ。

 

あの頃は、立ち読みが当たり前だった。田舎の小さな本屋で、裸電球が低く垂れ下がっていた。

本は店の入り口の広くて平たい棚の上に表紙を表にして並べてあった。その表紙の上に、ホコリが陽光を照り返しながらゆっくりと積もって行く。そのホコリを、割烹着姿のおばさんが、ハタキで舞い上げている。

店の奥まで午後の日差しが橙色に染めていた。

 

築港に架けられた橋は、水門を開閉するためのハンドルが、橋の横に渡された通路の上に5つほど取り付けられていた。

悪ガキたちは、きまって橋からその通路に跳び移って橋を渡った。橋から通路に跳び移るためには、一度、完全に橋から身を乗り出さなければならない。ランドセルを背負った小学生が、跳び移るのは結構危険な行為だった。跳び移るのにしくじったりしたら、そのまま数メートル下の潮水に落ちてしまう。

満ち潮なら衝撃は大したことはないかもしれないが、引き潮の時は大怪我は免れなかっただろう。

 

秋の祭りの時、この橋の上では、毎年、喧嘩神輿が衝突したものだ。本村と新立と呼ばれる各々の地区の大人たちが、褌一枚でそれぞれの地区の神輿を担ぎ、橋の上で担ぎ棒を交差させてぶつかる。神輿の上に乗っかった男が、相手の神輿の鳳凰がくわえた稲穂を奪い取ったら勝ちということだった。

元々が気の荒い町だったので、この喧嘩神輿はかなり激しいものであった。

担ぎ手の男たちは、みんな酒を飲んで気勢を上げている。中には神輿こぶが肩に出来ていた者もいたし、背中から両腕にかけて刺青に覆われている男もいた。

そんな男たちが、激しくぶつかり合うのだ。当然、神輿の上に乗って立ち上がっていた男が、橋の下に落ちてしまうこともあった。

怪我も多かったことだろう。でも、これが町の祭りのクライマックスだった。

今でも、この喧嘩神輿はやっているのだろうか。

 

橋のたもとにランドセルを置き小学生3人が立ったまま、若い女の人が通ると、大きな声で3点とか1点とか5点とか叫ぶのだ。

橋の上を通って行く女性の容貌を5段階で評価していたのだ。

通行人の中の1人の女の人が、かなり険しい表情をして私たちを睨みつけながら通り過ぎて行った。

その表情に恐れをなして、5段階で女性を評価する遊びはやめてしまった。

 

夕方の汐風が橋の上を吹き渡って行く。潮の匂いに包まれて、悪ガキたちは、ランドセルを再び背負い直して、大声を上げながら帰り道をたどって行く。ぶらぶらと後ろ髪を引かれるようにして、歩いて行くのだ。なかなか家には帰り着けない。