なすところもなく日は暮れる
無駄な1日だった。
朝遅く起きて、病院の予約があるのに行くのが面倒で、電話でキャンセルして別な日に変更してもらった。
あと少し残っていた探偵小説を、どうにか読み終わってしまい、別な本を読もうと思っていると、女房に昼飯を食べに行こうと誘われ、割引券が郵便受けに放り込まれていたので、ガストに出向いた。
ランチは別に割引でもなんでもなく、498円に消費税プラスでそれほど割安感はなかった。ドリンクコーナーが20円ほど安くなっただけだ。
帰宅したら猫がまとわりついて鳴くので、歯を磨いてブラッシングをしてやった。うちの猫は歯周病なので歯磨きが欠かせない。磨いたあと歯茎にケナログを塗ってやった。
もう外は暗くなっている。カーテンも閉めた。
これから風呂に入るつもりだ。夕飯はどうしよう。
また、生産性のない1日を過ごしてしまった。
なすところもなく日は暮れる、だ。
週刊新潮の新聞広告
今日の新聞の朝刊に、週刊新潮2月15日号の新聞広告が載っていた。見出しに「英語より韓国語、中国語教育を!」「子どもに自虐史観を植え付ける『日教組』亡国の教研集会」とあった。
またぞろ、週刊新潮が日教組を批判している。裏で糸を引いている輩がいるのだろうが、いつものことなのでウンザリしてくる。
日教組を非難すれば、週刊誌の売り上げが伸びるのかもしれない。
日本の総理大臣も、閣僚席から、議員の質問中にヤジを入れる目的で「日教組、日教組」と叫んだこともある。実に日教組は、不埒でどうしようもない存在だというわけである。
さて、韓国語や中国語を学ぶのが、どうして自虐史観を植え付けることになるのか。むしろ、英語を小学校から正規の教科として教えるほうが、問題なのではないか。なぜ、限られた時間の中で、英語を教科として教える必要があるのかまったく理解できない。それこそ亡国の所業だろう。日本は、植民地なのかと思ってしまう。正規の教科としての外国語学習は、中学校からで十分だと思う。
ただでさえ、昔と比べて詰め込みの授業をしていると覚えることが多いのに、この対応は不思議でしょうがない。
自虐史観という言葉が使われだしてから、もう三十年ほど経つだろうか。藤原信勝などが言い始めた覚えがあるが、この言葉は、日中戦争から第二次世界大戦までの間に、大日本帝国が大陸で起こした出来事ー南京大虐殺や従軍慰安婦の拉致などーを、なかったことにするために使われだした。だから、日本が戦前大陸で起こした事件を事実として捉え、そこから、戦後を見ていく立場の者は、こんな造語は使わない。相手に対して、このような言葉を使う者は、自ら南京大虐殺や従軍慰安婦の拉致はなかったという立場をとるということを表明していることになる。
週刊新潮の思惑がどこにあるのかは分からないが、歴史が証明している南京大虐殺や従軍慰安婦の拉致を、この出版社は認めていないことになる。
不思議なのだが、なぜ歴史的事実を認めることが自虐になるのだろう。事実を曲げて、なかったことにしてしまいたいという願望は、どこに根ざしているのだろう。
謝るのは嫌だ。いつも威張っていたいという感情。
ほんとうに情けない気持ちになる。寛容性のかけらもなく、中国や韓国・朝鮮を非難する。
威張り散らしたい人たちには、ご退場願いたいのだが。
タオに関する妄想
タオがなんだか痩せて来た。癌かもしれない。不安になって、動物病院に連れて行くと、検査ののち、医者がにこやかな顔で、やっぱり癌でしたと教えてくれた。
嘘だろと驚く自分と、やっぱりなあと感傷に耽る自分と、これで自由になれると飛び上がって開放感に浸っている自分がいる。
悲しみはほとんどない。なんだかオロオロしている。
おれだって残り少ない人生なんだ。自由気ままに暮らしたいさ。おまえの世話で人生をムダにするなんて、もう、まっぴらなんだ。ああ、よかった。
これからは、恋人と二人で楽しい人生を送るぞ。
そんなことを思っていると、急に悲しみがこみ上げて来た。心の奥底から悲鳴をあげながら悲しみが湧き上がって来た。
おいおい、タオが死んじまうんだぜ、アー、なんてことだ。
こんな世界は消えてしまえ、と叫ぶと、朝の変哲もない寝床の上で、タオが不思議そうな目をしてわたしを見ていた。
腰椎骨折日誌11
家に閉じこもっていたので、久しぶりに外を歩いて来た。
コルセットは着けたが、ストックは持たずに出かけた。風は冷たいけれども、春を内に含んで吹いて来る。陽射しが暖かい。
ほんとうに久しぶりの散歩だ。公園に続く階段を上って行く。先日降った雪が、所々、まだ融けずに残っていた。凍ったようになっている雪で転ばないよう気をつけて上って行った。
少し離れた公園まで足を伸ばそうとしたが、途中で腰が疲れて来てしまった。無理をしてはいけないと思い、ファミリーマートの前でUターンをした。
腰が重い。一瞬、ファミリーマートでコーヒーを買って休もうかと考えたが、昼のこんな時間に、フリースのパンツを穿いてコルセットをした、むさ苦しい男が店内でコーヒーを飲むのも薄汚れた感じがしてやめてしまった。
帰り道の小さな公園で、しばし休憩。
中学校の裏手の階段を降りていると、線路の傍で鉄道マニアと思われる若者が二人、別々な場所で脚立につけたカメラを構えていた。
たっぷり1時間歩いて、家に到着。腰の疲れはピークに達して、そのままソファに倒れ込んでしまった。
まだ、まだ、疲れる。
名護の海
もう20年以上も前のことだ。息子が、薬物中毒になっていたので、その治療のために名護の辺りに住まわせていたことがある。結局、息子は回復などせず、最後は路上で裸になって喚き散らし、病院に収容されてしまった。その後、どうやって東京に連れ戻したのか、すっかり記憶がとんでしまっている。
そのせいで、わたしは何度沖縄を訪れたか分からない。訪れては帰り、訪れては帰り、先の見えない世界に迷い込んだような日々だった。
名護の海は美しかった。市役所の前の幹線道路の向こうに公園があって、そのすぐ向こうに海が広がっている。名護に来るたびに、他にあまり行くところもないので、海を見に出かけたものだ。
わたしは子供時代、瀬戸内の海に面した小さな町に住んでいた。夏になると、学校から帰って来るや、ただいまも言わずに、ランドセルを玄関に放り投げたまま、浜に駆けて行ったものだ。浜には松林があって、その向こうに白い浜辺がどこまでも続いていた。
潮が引き、そして再び満ちて来るころ、夕日が真っ赤に染まりながら、水平線に沈んで行くのを見ていた。
遠い少年時代の思い出。
薬物中毒の息子に煩わされて、疼く心を抱きながら名護の浜辺を歩いていた。暇に任せて、山側のグスクの跡にも訪れてみた。沖縄そばの老舗の「宮里そば」で舌鼓もうった。灼熱の太陽に頭を焼かれながら、名護の町をよろめき歩いた。
その頃だろう、辺野古の話を耳にしたのは。普天間の代替基地として、暫定的に辺野古に基地を作るというようなことだったが、当時は耳を素通りしていた。そんなことよりも、息子の薬物中毒で、思考力がかなり麻痺をしていた。すっかり弱り切っていた。
あれから20年以上が過ぎ去ってしまった。わたしもすっかり歳をとってしまい、息子のことなどどうでもよくなってしまった。
ただ、名護の海のことは気にかかる。辺野古の海のことも気にかかる。
美しい海が、いつまでもつづいて行くことを祈る。
腰椎骨折日誌10
昨日の夕方は、ずいぶんと腰の調子が良かった。いつもなら腰まわりがドンヨリと重たくなって来るのだが、そんな症状も現れなかった。
午後の4時ごろに熱い風呂に入って、腰を十分に温めたおかげかもしれない。そういえば、風呂に入っている時も、今までのように湯船の中で辛くなって来ることもなかった。
有り難いことに、順調に回復しているのだろう。
ところが、今朝は、昨日ほど調子良くはない。目が覚めて布団から起き上がる時は、やはり小さな痛みがある。もちろん、徐々に消えていく痛みだろうが、1日の始まりとしては不快だ。
寝起きの補助のために、枕元に立て掛けておいたストックは、昨晩、片付けてしまった。こんなものは、もう要らないと思ったのだが、少し後悔した。
午前中から妻が三鷹に出掛ける予定があったので、車で駅まで送って行った。無理しなくていいわよと言いながら、私が運転可能だと分かると、当たり前のように送ってもらう。私も同じようなものだから、文句は言えない。
もうすぐ昼。そばの陽だまりで、猫のタオがレム睡眠中だ。
私は、これから読みかけの「特捜部Q」シリーズの続きを読もう。