我が感受性

ミラボー橋の下を セーヌは流る

そして僕たちの愛も

アポリネールが詩ったミラボー橋の世界は、若いころの淡い夢の中に消えてしまってもいいのだが、いまだに残り火が燻っていて私の判断力を鈍らせてしまう。

現実は、アルフレッド・ジャリがユビュ王の中で登場させた王自身が叫ぶように、人間はクソ袋に過ぎないのだ。ジャリのこんな言い方も、正確な人間認識から遠くて即物的なのだけれども、甘ちょろい人道主義的演劇へのアンチテーゼとしてのメッセージなのだろう。

ただ、冷静な目で世界を分析して見ることが苦手な私は、いまだにミラボー橋の周辺をうろつき回るしか能がない。

だから、自分の感情を表出することなく現実世界を分析する評論家や学者は、偉いなと思う。

結局、私は自分の夢見がちな感情から抜け出すことが、死ぬまでできないのだろう。

幻想を抱いたまま感情の虜として人生を終わるのかな。

CV22オスプレイ、横田に飛来

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東京新聞4月6日朝刊の記事

CV22オスプレイが5機、ほとんど予告なしに横田基地に飛来した。

 

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東京新聞4月5日夕刊の記事

一昨年、去年と沖縄は高江にあるオスプレイのヘリパッド建設反対の監視小屋(現在は、強制的に撤去されてしまった)に、二度ほど激励と連帯のために出かけたことがある。

沖縄は、オスプレイの墜落と騒音と低周波に悩まされ続けている。

オスプレイは、離発着の際、地面に強風と200度以上の熱風を叩きつけなければ飛び上がることができない。

そのため、ヘリパッドが建設された高江のヤンバルの森は今でも破壊され続けている。

その苦しみと不安が、今、東京にもたらされたのだ。皮肉な話だが、やっと首都圏の人間も沖縄の苦しみを実感できるようになった。

 

反対のためのデモか集会がないかとネットで調べて見たら、「横田基地の撤去を求める西多摩の会」が、福生横田基地の前にあるフレンドシップパークという公園で「オスプレイ配備反対抗議集会」をやるという案内が見つかった。

怒りで抑えきれない感情を、やっと制御しながら夕方、八高線牛浜駅に向かった。

八王子で八高線に乗り換え、拝島で青梅線に乗り継いで1本目の駅が牛浜だ。 集会は、17時から予定されている。

駅を降りると、同じ方向に行く人たちが結構いて、どうも反対集会を目指しているようである。

集会のあるフレンドシップパークに急ぎ足で向かっていると、横田基地の方から米軍のラッパが響いて来た。続いて君が代が大音量で流される。その後に、さらに米国国歌が続いた。

恥ずかしながら、横田基地で17時になると、こんな軍隊ラッパと君が代および米国国歌が、おそらく毎日流されているということを、今まで知らなかった。基地周辺に暮らしている人たちは、毎日、これを耳にしないわけには行かないということだ。かなり辛いだろうと思う。

住宅街と基地を分けている国道16号に突き当たり、道沿いに歩いて行くとすぐにフレンドシップパークに到着した。集会はすでに始まっていて、思ったよりも人が集まっている。

いくつかの報道機関もいて、ビデオを撮影していた。

 

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フレンドシップパークの集会に集まった人たち

主催者の話では、423人の集会への参加者があったそうである。当初、警察へ報告した予定数は、100人ほどということであったから、主催者の予想をはるかに超えた人数がこの集会に駆けつけたということだ。

私だけでなく、今回のオスプレイ横田基地への突然の配置に、危機感を覚えた人が大勢いたということなのだろうと思う。

集会は、1時間ほどで終了したが、翌日の東京新聞の社会面に、この集会の記事が載っていた。

 

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東京新聞4月7日朝刊の記事 と 集会に展示のオスプレイ模型


本格配備は夏からで、今回は一時的なものだという発表らしいが、まったく意味が分からない。おそらく一時的だと言いながら、本格配備の始まる夏まで横田に配備され続けるのだろう。

 

腹が立って仕方がないのは、オスプレイの危険性だけではない。

日本政府のあまりの情けなさを、目の前ではっきりと見せつけられたからだ。

佐賀県陸上自衛隊オスプレイを配備するに当たり、政府は地元の理解を得るために時間をかけている。

ところが、今回の横田基地への配備は、米軍の勝手放題、思うがままである。日本政府への通告は、18日前にあったそうだが、それについて政府が抗議をしたという報道はない。その上、国民にそれを知らせたのは、オスプレイ横田基地に飛来する2日前に過ぎない。

米軍が東京の横田基地オスプレイを配備することについては、大統領トランプは了承しているはずだ。

 

日本政府は、こんなにも日本の主権を蹂躙されて、なんとも思わないのであろうか。

一刻も早く日米地位協定の見直しに着手し、第二次大戦後の現在の日本という国のあり方を、根本から考え直して行かなくては、永遠に米国の属国であり続けることになってしまうだろう。

夢の国アメリカ。自由の国、民主主義の手本。アメリカン・ドリーム。そんな幻想は、すっかり消えてしまっている。

 

 長期戦になると思うが、これから先も、粘り強く反オスプレイの運動に機会を見つけては参加して行こうと思う。             

 いつまで生きていられるか分からない。せめて生きている間に、どうにかならないかと願っている。

風が強い

今日は、昼前から急に風が強くなり唸り声を上げている。

そのせいで猫のタオも、やたらと私のそばにいてジャレついて来て仕方がない。

奥さんは、ボランティアで宅配用の弁当作りに出かけた。

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私も何か仕事をするかなと思うけれども、もう、さんざんやって来たから、今さらいいやと思い直したりしている。

つまり、逡巡して同じところをグルグル回っているのだ。

で、結局、やりはしないのは分かっている。少し悩んだフリをしているだけだ。

もともと働くのが好きではない。昔から、何もしなくても苦にならない。だからいいのだ。

労働は生き甲斐だと言う人がいて、理解もするけれど、もういいやと思う。

しかし、何も生み出さないこんな歳になって労働から解放されても仕方がないよな。もっと若い時こそ、労働から解放されて生きていることを楽しむべきなのに。

人生って上手くいかない。

 

朝方の夢

朝方、 嫌な夢を見た。

半裸でトイレから出て来ると、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。

裸なのに困るなあと思いながらドアを開けると、トレンチコートを着た四十がらみの男とそれより少し若い男が二人、手帳をかざして立っていた。

分かるな、と念を押すように言って、そのまま玄関に入って来る。

私の腕をつかむと、さあ行こうと、連行にかかる。

私は、ああ、そうか、やっぱり、と妙に納得したような気持ちで、抗うこともなく引っ張られて行く、というところで夢は終わって、私は再び、眠りに吸い込まれてしまった。

 

この夢で、一番恐ろしいのは、ドアを開けたら、そこにトレンチコートの男たちがいたことだ。

見てすぐにこの男たちが刑事だと私は分かり観念してしまう。そうして、ああ、仕方ないなと思ってしまう。

 

別に、警察に捕まるような体験があるわけではないが、そんな恐怖がどこかにあるのだろうか。

久しぶりに、こんな夢を見た。

 

  

 

 

「ビートたけし」への一考察

昨日からテレビのワイドショーで、オフィス北野の騒ぎを伝えているのを聞いているうちに、「ビートたけし」のことと「たけし軍団」ということについて考えてみたくなった。

大げさな言い方になるけれども、ビートたけしが、今の日本人の精神構造に与えた影響というものは、かなり大きなものだったと思う。

それは、プラスの面ではなくマイナスの影響としてだ。

 

ビートたけしが、一番面白かったのは、ツービートとしてきよしと漫才コンビを組んでいた時だ。

あの頃のたけしの反社会的な毒舌は、本音で語られるものだから、世間におけるうわべの礼儀正しさや社交儀礼のウソを見事に突いていて、聞いている者は喝采したものだ。

わたしは、自分がアマノジャクでへそ曲がりだったので、たけしのそんなところにはかなり影響されたと思う。

 

ただ、その後のビートたけしには、あまり共感を覚えない。

特に、TBSの緑山スタジオで収録されていたたけし軍団のお笑いは、そのスペクタルの壮大さとは裏腹に、そこに流れていた思惑のようなものが、人間への愛情にまったく欠けていて、情けなくなったものだ。

大げさに言えば、人間の尊厳を傷つけて、笑いを取る方法の満載だった。

こんな番組を見て、笑い転げる視聴者も視聴者だったが、視聴率を稼げるからといって、良識も何も無視して番組を作り続けた放送局の罪も重いものがある。

裸のまま熱湯に入ることを強制して、熱くて跳び上がる様を、周りで面白がって囃し立てるというようなことを、当たり前のように放送していた。

 

当時、少年だった人たちは、今、40代から50代になっている。

今でもテレビのバラエティ番組で見かけるこのような笑いの取り方に対して、その年代の人たちが、かなり不感症にさせられてしまったのではないかと心配になる。

35年ほど前、障害を持った人や周囲から浮いた内気な人たちに対するいじめが、そこらじゅうの学校で発生していた。その後も改まるどころか、今も慢性的に続いている。

人間が持っている、自分より弱い者に対する差別意識が理性的に制御・抑制されるのではなく、ビートたけしたちによるお笑いによって積極的に肯定されるような形で、当時の少年少女たちの心の中に入り込み、その精神形成に何がしかの影響を与えたような気がしている。

差別と暴力を否定しながら、一方で傍観者として差別と暴力に加担するようなことをしてしまう精神構造。

下手をすると、差別を受け暴力を振るわれ怯えてオロオロしている人を見て、笑ってしまう自分をなんとも思わない精神構造。

 

たけし軍団のお笑いの流れは、ダウンタウン松本人志浜田雅功などの笑いにつながって、今に続いている。

弱者をいじめ抜いて笑い飛ばすという笑い。

 

ある時から、ヘイトスピーチが大手を振って現れた。

在日韓国朝鮮の人たちを攻撃し、日本に来る中国の人たちを嫌う。

自己責任だと言って、生活保護受給者を攻撃する。

常に相手より強くなければ気が済まない、裏返せば、相手に弱く見られるのは恐ろしくて仕方がないという心理状態。

すべて「ビートたけし」や「たけし軍団」が、肯定して補強してきたものなのではないか。

 

今、たけしは大御所然として、芸能界に君臨している。

つまらない映画を作っただけなのに、世界は騙されて、ヴェネツィア国際映画祭では金獅子賞を勝ち取り、フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章まで授けられた。

誰も批判などしないのだろう。

しかし、おだてる必要などない。わたしには老害の極みにしか思えない。

 

一日

畑を見に行く。

もう、桜は終わり。階段には散り落ちた花びらが、陽の光に照らされて張り付いていた。

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腰椎は治ったはずなのに、畑までの往復をすると、腰がどうしようもなく重くなる。

治療中より悩みが深い。

畑の周りは、すっかり春の景色だ。

萌黄色の中に残った桜が淡く咲いている里山の情景に、ホッとした気持ちになる。

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駅前までの道の傍らの花々の輝き。

今日も暑い。

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昼食は駅前のマクドナルドで、テリヤキバーガーのセットを頼んだ。620円。

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テリヤキバーガーを食べ、ポテトフライを少し口にしたら、腹が膨れてしまった。

隣の席に、ご婦人が二人、大きな声で世間話らしい。耳がうるさくなり、読みかけの本を閉じ、残ったコーヒーとポテトフライをゴミ箱に放り込んで、外に出た。

家に帰る。

 

標語についての疑問

ずっと気になっている標語がある。

それは「いかのおすし」と「ホウレンソウ」という標語である。

 

「いかのおすし」は、この句のそれぞれの文字を先頭にするフレーズを、小学生に思い出させるための防犯標語として考え出されたらしい。

いかない

らない

おきなこえをだす

ぐにげる

らせる

この五つがそのフレーズである。

しかし、私には、「いかのおすし」からは、何度覚えても、なかなかそれらのフレーズは思い浮かんでは来ないのだ。

すぐに浮かぶのはネタがイカの寿司である。その次の感想は、美味そう、なのだ。

とてもこの防犯標語が企図しているフレーズは現れてはくれない。

不審者に出くわした小学生が、「イカのおすし」「イカのおすし」と繰り返し、いったい何だったのかなと思い悩まざるを得ないことを危惧する。

ついでに苦言を呈すると、イカのお寿司という言い方は、なんとも座りが悪い。寿司屋に行って、こんな言い方はしない。

 

「ホウレンソウ」という標語も同じだ。

ほうこく(報告)

れんらく(連絡)

そうだん(相談)

ということらしいが、「ホウレンソウ」からは、こんな連想は湧いてこない。青い野菜。ポパイ。ほうれん草のおひたし。鉄分豊富etcであって、決して、報告、連絡、相談などではないのだ。

これもついでに言っておくが、「報告」と「連絡」の違いってなんなのだろう? よく分からないことを、標語にしてはダメだろうと思う。

ある時から、こんな標語を言い出した管理職がいたが、要は一人で悩まず(自分で判断せず)に、上司にちゃんと連絡をして指示を仰がなければならないという意味で使われていたように思う。

何か事件が明るみに出て、その時に連絡や相談を受けておらず、上司が知らないということになれば、上司の責任問題となるかもしれない。そのような羽目になったら大変だと言うので、考案された標語としか思えない。

自分に責任が降りかかる前に、事件を起こした当の本人に責任を取ってもらおうというわけだ。部下の不始末を、何も言わずに自分が引き受けて収めようという覚悟がどこにもない標語である。部下を守ろうという意思が何処にも見られないと言うしかない。

 

両方の標語に共通するのは、連想ということを全く考えずに作られているということで、はっきり言ってしまえば、役には立たないし、気持ちが悪いものになっている。

こんな標語を使ってイメージを混乱させるよりも、内容をそのままはっきりと覚えた方が、どれほどスッキリして簡単なことか知れたものではない。

ぜひこんな標語は廃止にして欲しい。

 

標語であっても、いろは歌を七文字ずつ区切って、それぞれの最後の平がなを繋げると現れる「とがなくてしす(咎無くて死す)」のような、また、伊勢物語東下りの段にある和歌「らころも  着()つつ慣れにし  妻(ま)しあれば  るばる来つる  旅(び)をしぞ思ふ」の各句の先頭をつないで、「かきつばた」という言葉を折り込んで遊ぶというような知的な楽しみが必要なのだ。

 

街中で突然現れた「怪しいおじさん」を表す表現は、そのようなおじさんを連想させなければ定着しない。

例えば、次のようなイメージの繋がりとなる。

ぶないぞ

さしい声で

つこくて

ろ目を使う

金持ち

ぶん勝手な

サングラス

とてもつまらないフレーズになってしまったが、一応、「怪しいおじさん」の連想とつながっているだろうと思う。もちろん、防犯標語にはならない。