オウム真理教事件と死刑執行
7月の初めにオウム真理教の死刑囚たち7人に刑が執行され、その20日後に、残っていた死刑囚6人の刑が続いて執行された。
その異常さと気味の悪さに衝撃を受けてから、ずっとそのことが頭から離れない。
13人の死刑囚を一度に絞首刑にしたこと。
死刑制度そのものへの疑い。
簡単に言うと、この二つのことが、私を悩ませて来た。
13人もの死刑囚をいちどきに死刑にするなどということは、私のそれなりに長い人生の中で経験したことがない。
日本には死刑制度があり、そして、確かに死刑が執行されて来たが、その執行にはかなり慎重だったはずである。任期中に一番たくさんの死刑執行に署名をした大臣は、鳩山邦夫だった。調べてみると13人の死刑囚の刑の執行に署名している。
しかし、今回、上川陽子は20日間という短期間に13人の死刑執行命令を下したのだ。
一体どういう経緯があっての判断なのだろうか、まったくわからない。彼女は、この決定を下すにあったって、どれほど苦悩したのだろうか。それが、まったく見えてこない。
異様に感じたことは、死刑の報道の仕方に対してもだった。
朝、テレビを見ていたら、8時30分ぐらいにテロップで、オウム真理教死刑囚松本智津夫に死刑執行、井上、早川も執行される模様、のような文言が流れて来た。
そして、松本智津夫を含めた13人の顔写真の一覧が写し出され、死刑が実施された人とそうではない人が色分けされて表示されたのだ。
こんなことは、初めてだった。大体が、死刑の実施は、それが実行された後、次の日あたりに出来るだけ簡潔に報道されて来たように思う。
驚いていると、そのうちに松本智津夫以下7名の死刑が実施されたと報道されたのだ。
その上ご丁寧に、残りの死刑囚は6人で以下のメンバーであると、解説までされたのである。
それから20日後、残りの死刑囚にも刑が執行された。
朝から通院していた私が、その報道について知ったのは、午後になってからだった。おそらくは、前回と同じような報道がなされたのだろう。
しかし、残りの6人の死刑囚に対する処置は、かなり残酷に思えた。彼らは、7人が死刑執行された後の20日間を、どのような精神状態で送ったのだろうか。考えただけで、胸が苦しくなる。
昨晩、参加した集会は、一月ほど前 Twitter か Facebook を見ていて知ったものだ。
「死刑執行に抗議し、オウム事件についてもう一度考える」集会という名称で、地下鉄春日駅近くの文京区民センターで催された。
主催は「オウム事件真相究明の会」で6月の初旬に立ち上げられたのだが、麻原彰晃たちが死刑になってしまったので、もう真相を究明することができないというので、この集会が最初で最後の集会になるという話だった。
文京区役所の近くにある「後楽園そば」という立ち食い蕎麦で、肉そばを大急ぎで食べ会場に駆けつけた。
私が入った時は、後ろの席はまだ空いていたが、それでも結構な入りであった。
結論から言うと、この集会に参加してよかったと思っている。
分かっていないことや問題点をいろいろと学ぶことができた。
台風通過後にぶり返した猛烈な暑さのせいで、すっかりバテ気味の身体を叱咤して、どうにか文京区まで出て来た甲斐があったというものだ。
集会は、第1部と第2部に分かれていて、第1部の司会は月刊誌「創」の編集長篠田博之で、最初の登壇者は映画監督の森達也だった。
続いて精神科医の野田正彰の講演、次が松本サリン事件の被害者だった河野義行とジャーナリスト浅野健一の対談。
第2部の司会は、雨宮処凛。
時間が押していたので、1人5、6分のスピーチとなる。
順番に登壇者を記すと、下村健一、有田芳生、落合恵子。その後に、ビデオメッセージで、茂木健一郎、金平茂紀、堀潤、PANTAと続いた。
そして再び、登壇者として鈴木邦男、山本直樹、坂手洋二、安岡卓治、吉岡忍が一言ずつ話をした。
それぞれが、オウム事件と死刑執行ということについて、考えるところや知っている情報を話してくれた。
登壇者一人一人の話を載せるのは大変だし、また、正確に覚えてもいないので、私が、あまり気にもしていなかったことや、初めて知ったこと、それから、思い出させてくれたことなどを、網羅的に以下に記してみる。
松本死刑囚(麻原彰晃)が精神錯乱状態だったこと。明確に拘禁反応の状態にある囚人を死刑にすることができるのかということ。
弁護団推薦の精神鑑定医に与えられた時間の短さ。6人の医者全員が麻原死刑囚の精神状態について拘禁反応状態の精神錯乱にあるという、同じ結論に至っているということ。
東京高裁から選ばれた精神鑑定医の西山医師の報告書の異常さ。
関連して、麻原彰晃が遺骨の受取人を四女と指名をしたというが、そんなことができるような精神状態ではなかった。どこから流されて来た情報なのか。
遺骨が拘置所内で勝手に焼却されたこと。遺骨の扱いは、国家が決めることではないのになぜか。
オウム真理教と公安警察の関係。公安警察はオウムと何をやって来たのかということ。
サリン事件については、公安は止められるのにわざと止めなかったのではないかという疑い。
オウム真理教と北朝鮮との関係。国松検察庁長官の狙撃事件の不可解さ。
オウム真理教の死刑囚が、その刑の執行後も「元死刑囚」という肩書きをつけて呼ばれていることへの疑問。刑の執行が終わったのだから、もう罪人ではないはずだということ。
司法的には終了したが、被害者としてのサリン事件は続いていくということ。
5月の初め、法務省の会合で、上川法相はオウム真理教の死刑囚の死刑執行に署名をすることを迫られて、泣き喚いたという話。
13人の死刑を実行したのは、強い安倍政権をアピールするため。今後も、死刑囚の死刑執行が加速するのではないかという懸念。
現政権の下で、真相が見えなくなった。忘れさせるシステムに絶対に乗ってはならないということ。
死刑報道が、事前報道であり実況報道と変化していること。精神病者でも刑の執行をしてしまうこと。
死刑囚の情報公開がまったくされないこと。拘置所の中でどのような状態に置かれているのか、本当に分からないこと。
死刑制度については、冤罪の恐ろしさがある。冤罪で、その罪が晴れた場合、どのような態度が取れるのか。
死刑とは死そのものなのだが、死のイメージが希薄になっているのではないかということ。
今の学生は、仲間内で相手の弱いところを徹底的に攻撃し潰そうとする。社会や国家が、そのようになって行くのではないかという懸念。
オウムが出版した書物には、ハルマゲドンなどという言葉が出てくるけれど、第二次世界大戦での日本が行なった戦争については何も書かれていないということ。
何だか、発表されたことをまとまりもなく載せてみたが、オウム事件の裏側には、たくさんの不可思議な出来事が潜んでいることがよく分かった。
公安との関係とか、北朝鮮との関係とか、ずっと昔に聞いたことがあったことを思い出した。
それにしても、今のように、死刑囚の拘置所内での生活が一切外部に知らされないというような状態だけ取っても、このような形の死刑制度には問題があるとしか言えない。
国家が死刑制度を完全に手中に収めていて、すべてを思いのままに隠すことが出来るのだ。
観念的に死刑制度のことを云々するだけでなく、日本において実際に運用されている死刑制度というものにもっと目を向けるべきだと思う。
今更だが、今回の集会で突きつけられた問題点をさらに掘り下げて考えていこうと思う。
国家が政権維持のために死刑制度を利用し始めたら大変なことになるのだから。
死刑について
国家が死刑制度を公認していて、さらに、実際に次々と死刑囚の死刑を実行していたら、そんな国の国民は、人間の命というものを尊いとは思わなくなって行くに違いない。
そして、挙げ句の果て、役に立たないと国家が認めたような人間は処分されて行くだろう。
津久井やまゆり園で障害を持った入所者たちを、生きている価値がないものとして、次々と殺してしまった男のような人間は、そんな政治的風土の中に生まれてくるのだ。
オウム真理教の主犯たちである死刑囚13人に対して、現政権はその死刑を7月に執行した。一月足らずの間に、13人すべての死刑を執行したのだ。
これが異常でなくて何なのだろう。そして、その執行に対して逡巡というものがない。
今までの政権は、死刑制度のもとでも、その執行に対しては躊躇いというものがあった。法務大臣が執行の許可を出すというのは、どんなにか重圧を感じることだろうと心中を察してしまう。
しかし、今回の上川法務大臣に、そのような苦しみを感じることはできないのだ。
そんなことのわだかまりもあって、今夜は、「死刑執行に抗議しオウム事件を考える」集会に出るつもりだ。
天ちゃんのお苦しみ
天ちゃんが心を傷めていたそうな。侍従くんの日記にそんなことが書かれているという。
天ちゃんと戦争責任を考えるとき、決まって侍従くんの日記が出て来る。
そうして、決まって天ちゃんは戦争をしたくなかった。軍部が暴走したので、天ちゃんには止めることなどできなかったのだ。立憲君主制とは、そういうものなのだ、とまことしやかに論評される。
天ちゃんは、ずっと平和を望んでいて、戦争などしたくなかった。
天ちゃんは、ずっと平和主義者だったのだ。(だから、戦争責任などないのですよ、てな訳でお人好しの国民は、すっかりその気になってしまう。)
僕ちゃん、戦争したいんだ、と言って戦争をする僕ちゃんはいない。
戦争なんて、みんな平和を守るためというお題目から始まるでしょ。
天ちゃん、大元帥だったんだよね。あの世に行く、つまりが崩御なさる2年前になって、やっとこさ先の戦争の責任についてお苦しみになっていたなどというのは、ほとんどボケていたのじゃないかと感じる戯れ言ですよ。
チンが命じた先の大戦で、日本国民の死者は300万人を超え、アジアの民は2000万人が死んだようだが、チンは平和を望んでいたのだよ。
ああ、それなのに、こんな歳になっても戦争責任を言われるので、辛いのだよね。
侍従くんは、優しく慰める。もう、昔のことで、今の国民はそんなことは思っていませんからご案じなさることはありません。
今の国民をダシにして天ちゃんを慰めようとするような、安易な方法を考えたりしちゃダメじゃないですか。
主要メディアが、一斉に、お年を召した天ちゃんの苦悩が記されている侍従くんの日記を記事にした。どこからの差し金なんだろう?
平成が終わろうとしている今、昭和の天ちゃんのことをわざわざ記事にするのは、どんな魂胆があってのことなんですかね。
暴力団との繋がり
内閣総理大臣が暴力団と繋がりがあるなんて、とてもまずいでしょう。そんな奴は、即刻、議員辞職させるべきだと思いますが、自民党の方達は、なぜそのような行動を取ろうとしないのですか。
自分たちも暴力団と、何らかの関係を持っているということなのでしょうか?
もしくは、深く関わっていて、ほとんど暴力団だったりして。
昔、イタリアの政界が、ジュリオ・アンドレオッティ首相を含めてマフィアと深く関わっていたことがありました。
イタリアの政治家たちは、健全だったので、そんな奴らを全て追放してしまいました。
いいですか! 常識的に考えれば、自民党総裁選をやっているどころではないと思いますよ。
堪忍して下さいよね、暴力団は。
いい加減にして下さいね、自民党。
亡霊
倒れた頃は、目の前にいつも死がぶら下がっていて、見える風景も温かみなど感じられず平面的だった。
言ってみれば、秋の末の陰影のない雑木林の風景のようなものだった。
体のほとんど全て、9割方が死の靄の中に紛れ込んでいるような具合だった。
いつ死ぬか分からない諦めと、何とも形容し難い悲しみの中で、自らの生の期限を推し量って暮らしていたのだ。
心臓で死ぬのだけは、どうしても認めることができなかった。死ぬのなら、別な原因で自分は死にたいとばかり考えていた。
10年生きられるか分からない。それならば、山で滑落して死んだ方が、私をこんな状態にした運命に逆らって自分の意志を貫いたような気がしたのだ。せめて運命を見返してやらなくては、死んでも死にきれないと、本気で考えていた。
夜の山道を平気で歩いた。ヘッドランプも点けず、暗くて月明かりだけの山道を駆け下りて行く。暗闇の向こうには、魔物が潜んでいるかも知れない。魑魅魍魎が跋扈して、夜の闇を行く登山者をたぶらかそうとしているのかも知れなかった。
私の心は、麻痺をしていた。なぜなら、私は半分死んでいて、私自身が亡霊だったから。亡霊の私が山道を駆け下りて行く。
もしも、私に出会った人がいたら、駆け抜ける亡霊の姿に腰を抜かしたかも知れない。
山では、ムササビが木の間を飛び、コウモリの目がライトの光を反射して赤く浮かび上がる。
ああ、悪魔が暗闇で踊りまくる。
亡霊になった私は、我を忘れて夜の坂道を駆け下って行くのだ。
苛だたしい一日
暑い午後、ドトールで読みかけの新書を読もうと歩道を歩いていく。
8月もこの時期になると、なんだか悲しくなってくる。暑いことは暑いのだが、吹いてくる風に湿り気がなく、なんとなく大陸の風を連想させる。この風は、タクラマカン砂漠を吹き抜けてきた風なのだ。テンシャン山脈の万年雪からわき起こった風なのだ。
何と、通過する途上の日本海の熱気までも冷やしてくれた。
ドトールのドアを開けると、若い学生風の男が睨みつけた。その前に座って、不乱に本を読んでいる女がちらっと私を見てフンと舌打ちをして、再び、本に目を落とした。
こんなもんだ、世の中は。構うものかと、若い学生の前の席に腰を据えた。
そのうち室内がやたらと冷えてきた。クーラーのきかせすぎ。後ろの席のおっさんが、甲高い声でずっと電話をしている。お前は何なんだ! ここは喫茶店で、みんな本を読んでいるんだよ。怒鳴り付けたい。でも、我慢、我慢! もう歳なんだから、こんなことで怪我でもしたら人生台無しだ。君子危うきに近寄らず。徘徊老人も危うきに近づいてはならない。
奥さんから買い物の一覧が、ラインで送られて来た。肉と魚、豆腐と納豆、紅生姜、玉ねぎはあるとのこと。
もう夕方だ。ドトールを出て、畑に向かう。畑に行くのは1週間ぶりだ。
そばのスーパーで言われた食料を買い込んだ。コーヒーがなくなっていたので一袋買った。担いでいたザックが一杯になった。
畑は、草ぼうぼう。茫々たる原野よ! ここではない何処かへ、おれは立ち去るのだ。
オクラは葉っぱばかりが旺盛に茂っていて、実がほとんどつかない。インゲンも、葉っぱばかりが生い茂っている。
放っておいたら巨大になったナスが、10個ほどもぶら下がっている。次々にヘタを切ってビニール袋に放り込んでいった。ミニトマトも百花繚乱。赤く張り裂けてぶら下がっていた。虫に食われて穴の開いた奴は、どんどん地面に投げ捨てていった。
パンパンになった袋と、食料で一杯になったザックを担いで、夕方の川沿いの道を家に向かって歩いて行く。
結構担げるじゃないか、老いぼれの腰椎骨折よ。
きっと、奥さんは何食わぬ顔で、おれが帰ったことも知らないでいるのだろう。
食卓の上に穫ってきた茄子とミニトマトをぶちまけた。
新宿でカラオケ
前々から教え子たちとカラオケの約束をしていたので、新宿に出た。
西口広場の交番の前で待ち合わせをする。
集まったのは私を含めて全部で5人。一人は急に入った出張のせいで来られなくなってしまった。
このカラオケの会は、教え子のH君が企画したものだ。
例年、4月の末に教え子たちとの集まりがあるのだが、二次会でカラオケに行きましょうという誘いに乗って、恥ずかしげもなく歌ったせいで、私がカラオケが好きだということになってしまった。
まあ、嫌いではないのだから致し方ない。
昼食を西口の蕎麦屋で取った。
女子中学生のような可愛いらしい店員さんが、蕎麦を運んで来てくれたので、我慢ができず年齢を訊いてしまった。22歳だという。
どう見ても、14、5歳にしか見えない。
歳を取ると、若い女性に平気で歳を訊いたりしてしまう。
セクハラだぜ、爺さんよ。困ったものだ。
昼食後、カラオケ店に向かう。
ビックリしたのだけれど、飲食を持ち込んで歌うことができるカラオケがあるのだ。
新宿の「まねきねこ」というカラオケ店である。
途中のファミリーマートでビールとウイスキー、氷と炭酸、そして、ツマミなどを買い込んで「まねきねこ」に向かった。
大ガードのすぐそばの雑居ビルの4階に、直に道路に面しているエレベーターで上がって行く。
エレベーターから降りると、目の前に明るい空間が現れた。
一人カラオケなんてのもある。
ピンクのネオンサインが刺激的だ。
最初はビールで乾杯して、時計回りと反対に順番に歌って行く。
これがなかなかキツい。何を歌ったらいいのか見当がつかないから、曲が選べない。
おきまりの昭和歌謡ということになる。
平浩二の「バス・ストップ」をがなりたて、一曲目が終わった。
お土産だというので、Mさんがシーバスリーガルを持って来てくれたので、みんなで飲もうということになった。
シーバスリーガルの12年ものが、余りに旨いので、ためらうことなく杯を重ねてしまった。
駅の駐車場まで車で来ているから、今日は飲めないと宣言していたT君もシーバスリーガルの誘惑に負けて、車を置いて帰ることになった。
途中から記憶が曖昧なのだが、手嶌葵の「明日への手紙」、サザンオールスターズの「TSUNAMI」、ナット・キング・コールの歌うチャプリンの名曲「Smile」 などを歌った覚えがある。
岡林信康の「私たちの望むものは」も歌ってしまった。
みんな、さぞ迷惑だったことだろう。
暗くなってから新宿を後にした。
途中の駅まで、H君が送って来てくれた。
本当にありがたいことだ。
あんまり幸せなので、カラオケ店で少し涙が出てしまった。