リンガーハットが撤退

昨日は、最終電車で新宿から帰宅した。多摩センターからタクシーに乗らざるを得なかった。例によって、へべれけ状態。

今朝、起きたのは9時過ぎで、午前中はボンヤリしたまま何も考えられない。

昼過ぎに、奧さんと二人で食事に出かけた。

奥さんが、リンガーハットがいいというので向かっている途中、ステーキ店の傍を通り過ぎるとランチ680円と幟が立っている。

ステーキにするかというので、方針変更の下、少し高いけれどもステーキランチをいただくことにした。

量は十分で、味もまあまあ美味しく食べられた。

満足して、外に出て歩いていると、目の前に、窓に青い目張りをして、看板も全て取り外され白くなっている店屋の建物が現れた。

 

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あれ? リンガーハット、潰れているよ。営業してないぜ! 撤退したんだ!!

奥さん曰く、暫くわたしが食べに来てあげなかったからよ。

私のつぶやき、けっこう儲かっていたと思うんだけれどなぁ。

全国チェーンだから、ダメだと思うと、すぐに撤退するんだね。

 

何だか、無残な感じがした。このレストランだった建物の痛々しさ。

もう、リンガーハットで長崎ちゃんぽんと餃子を食べることはできないのだなあと思うと、悲しくなってくる。

続かないんだね、店屋ってのは。

このあと、どうなるのだろう。別なレストランが入るのだろうか。それとも、更地になってしまうのだろうか。

漫語

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中国語講座に行った帰り、橋本のドトールに立ち寄ってコーヒーを飲んでいる。

このブログは、子供たちに私の思い出を残そうという目的で書き始めた。

考えてみると、親としての私は息子や娘に、自分がどのように生きて来て、何を考えていたのかということを、あまり伝えて来なかった。

大学は文学部に行って、演劇を目指したこともあったが、そんな目的は、とうの昔に捨て去ってしまった。

齷齪と人生を生きて、知らない間に、気づいたら人生の終わりを迎えるような歳になっていた。

下らないと思っていた在原業平の辞世の和歌が、切実に胸に堪えてしまう。

ついに行く 道とは かねて聞きしかど 昨日今日とは 思はざりけり

いつか死ぬとは分かっていたのだけれど、それが昨日や今日になるとは思わなかった。

そんな和歌だ。

孫が生まれると、そんな思いが益々嵩じて来た。祖父さんがどんな人間だったのか、例えつまらない人生でほとんど意味がないような人生だったとしても、なんだかまるで存在しなかったというのは寂しかった。

そこで、ブログを書くことにしたのだ。

だから、私のブログには、昔の思い出が多い。

この歳だから、未来への生産的な展望はない。

現在は不満の対象だし、未来はもう手には入れても仕方のないもの。あるとすれば、つまらない未来しかない。

だから、いきおい、ブログの内容は過去へ過去へと遡る。

不思議なもので、すぐに浮かんで来る思い出を書き終わると、とっくに忘れていた思い出が、その下から滲み出て来る。今まで、こんなことには気づかなかった。

思い出をいくら書き並べても、そんなものは自己満足にすぎないと言われれば、反論のしようもなくその通りなのだが、今しばらくは、心の奥底に溜まっている記憶の数々を引きずり出して、我が人生を確認して行こうと考えている。

子供たちや孫たちには、馬鹿な祖父さんだったなあ、と呆れられるかも知れないが。

炎天下

炎天下の農作業は、過酷だ。

体力とエネルギーが漲っているのなら、満足感もあるかもしれない。

しかし、腰椎骨折をしてしまった男にとっては、ほんの少し葉を切り落としたり、実を収穫するのさえ大変な労力である。本当に、ワールドカップに出場しているサッカーの選手のような頑強な肉体が欲しいものだ。

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乾ききった地面。

畑には、暑さのせいなのか虫も這っていない。

休憩所になっている四阿で、フランス生まれの炭酸オレンジジュース「オランジーナ」をグイと飲む。

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幻のナンシー演劇祭

1970年の4月半ばのことだったと思う。文学部の教授でフランス文学の翻訳家として名の知られていた安堂信也が、一通の手紙を持って劇団「自由舞台」のアトリエを訪ねて来た。

その手紙は、フランスのナンシーから届いた演劇祭への招待状だった。

安堂信也は、ノーベル賞作家のベケットの前衛的な戯曲「ゴドーを待ちながら」などの作品やアントナン・アルトーの異端の演劇論「演劇とその形而上学」などを翻訳して日本に紹介していた。

 

その安堂信也が、なぜ学生劇団「自由舞台」のアトリエを訪ねて来たのかといえば、彼が「自由舞台」の顧問をやってくれていたからだった。

私はといえば、安堂信也の名前は知っていたが、まさか「自由舞台」の顧問をやってくれているとはその時まで知らなかった。

 

お目にかかったのはこの時が始めてだった。

長身痩躯のダンディな、まさしく前衛的なフランス文学そのもののようなお姿を目にして、大学に入ったばかりの小僧は大いに感激したものだ。

 

集まった劇団員の前で、安堂信也教授は取り出した手紙を広げると、書かれている内容を話し始めた。

フランス語の文面をスラスラと読み上げながら、逐一翻訳して私たちに伝えてくれた。

内容もさることながら、ミーハーな私は、そのさりげなくフランス語を話し翻訳する様子に驚いてしまった。こんな人がいるのだ、と。

 

さて、手紙にはこんなことが書かれていた。

6月に(7月だったかもしれない。昔のことなので、細かいことは忘れてしまった)フランスのナンシーで演劇祭が行われる。例年行われていた国際演劇祭である。

この演劇祭に、過去の実績から学生劇団「自由舞台」が選ればれたので招待するというのであった。日本からは唯一「自由舞台」だけが選ばれたと書かれている。

ただし、旅費等は自分持ちという内容だった。

 

安堂信也から、この話を聞いた私たちは、しばらくの間興奮して、ナンシーに行くための方法を思いつくままに列挙したりしたものだ。

イカル号でウラジオストックまで行き、その後はシベリア鉄道を乗りついてパリに行こう。それが、一番安い方法だろう。それにしてもスポンサーを見つけなければ、行くことは不可能だ。よし、コカコーラに相談を持ちかけてみよう。コカコーラのマークを印刷したTシャツを着てフランスに行くのだ。

 

しかし、こんな興奮は、すぐに冷めてしまった。

いったい、ナンシー国際演劇祭に行って何を上演するのだ。何も上演するものがないではないか。1970年の4月、大学が始まったばかり、学園紛争でズタズタになってしまった「自由舞台」には、新入生を募集したものの、先の見通しなど全く立っていなかったのだ。

先輩たちも、ほとんどが前年までに「自由舞台」を去ってしまっていた。

日々の活動だって、暗中模索で、学生劇団の雄として君臨して来た曽ての面影などどこにもなかった。

スタニスラフスキー・システムは否定されて、時代はアングラ・小劇場運動の真っ只中だった。新劇が象徴している予定調和だとか、額縁舞台だとか、演出家だとか、劇作家だとか、戯曲だとかが、ことごとく批判の対象だった。

重要なのは、役者であり、即興であり、実存的な肉体であった。

演劇のメソッドを捜し求めて必死だったが、そんなものが簡単に見つかる訳もなかった。

 

結局、ナンシー演劇祭に行こうというエネルギーを持続することはできなかった。

4月に知って6月か7月までに準備をするというのも、こんな混乱した劇団内部の状態では不可能な話だった。

その上、先輩たちは、学園闘争の総括ができない心の傷を抱いたままで、やはり、どうしていいか分からず、何処かへ消えてしまったのだ。

 

今になって思う。あの時、何とかしてフランスを目指していたら、違った人生が待ち構えていたかも知れないと。

 

 

 

 

霧の大学構内にて

学生劇団「自由舞台」の大学祭での公演で、唐十郎の「続ジョンシルバー」をやったことがある。

1971年の話だ。

 

みんな金がなかった。劇団にも学生にも。

舞台のセットを作らなければならないのだが、ベニヤ板を買う金銭が決定的に足りなかった。どうにかしなくてはならない。

それで仲間のTの提案に同意して、何人かで構内に立て掛けてある立看板を拝借することにした。つまり、あからさまに言えば盗むということだ。

 

明るいうちに構内を巡って、いくつかのタテカンに目星をつけておいた。

まず第一に、舞台のアトリエに近いところにあるタテカンである必要があった。遠いと運んでくる途中で見つかる可能性が大だ。

アトリエの近くには、革マルの看板がたくさん立てられていた。それから日学同という右翼学生のグループの立て看板がいくつか立て掛けてあった。

あとの報復がこわかったので、一番数の多い革マルのタテカンは最初から外した。選んだのは日学同の看板だった。

三島由紀夫が自決したとき介錯をした森田必勝が属していたとはいえ、大学での勢力は革マルとは比べ物にならなかったので、安心だったのだろう。

 

夜、構内の人通りが途絶えた頃を見計らって、アトリエに近いタテカンから順番に運び込むのだ。

霧が出ていて、構内を街灯の明かりがボンヤリと映し出していた。

その中を、ソレッとばかりにTと私が日学同のタテカンを両側から持ち上げて劇団のアトリエがある9号館に運び込むのだ。

何度かそんな行動を繰り返して、舞台に必要なベニヤ板を確保することができた。

 

翌日だったか、その次の日だったか覚えていないが、構内に日学同の革マルに対する抗議声明が書かれた看板が掲げられていた。幸いなことに、彼らは完全に勘違いをしていたのだ。

遥か昔、切羽詰まった出来心からやらかした行動だった。今更だけれども、どうか許して欲しい。

 

公演予定の前日だったか、革マルの大学祭実行委員会の担当者が、背広姿で二人現れた。

文連に加盟していないのに、チケットを販売して公演するのは中止しろと言う。もし、どうしても実施するというのなら、こちらにも考えがあると脅して来た。

こちらにも考えがあるというのは、実力行使をして公演をぶっ潰すということだった。

仕方がないので、正式な公演ではなく舞台練習ということにし、チケットもカンパ代ということに変更して上演した。

 

上演回数は、マチネを入れて二日間で4回やったと思う。

客の入りは、毎回、大入り満員で、アトリエから溢れるほどであった。

 

公演が始まってしばらくした時に、とんでもないことに気がついた。

舞台上に作ったセットの上の方、照明が届かず薄暗いあたりに、うっすらと日学同という文字が浮かび上がっていたのだ。ペンキを塗って消したはずなのに、塗りが甘くてペンキが乾いた後、元の文字が浮かんで来てしまったのだ。

冷や汗ものだった。芝居を見ている大勢の観客が気づかずにいてくれることを願うばかりで、芝居が終わるまで気がきではなかった。

幸い、観客からは何の指摘もなかった。怒り狂って抗議をしてくる学生も現れなかった。

おそらく日学同の学生に、芝居を見るような連中はいなかったのだろうと思う。

それとも、気がつかない振りをしてくれたのだろうか。

 

はるか昔の夢のような思い出を話してしまった。

 

 

七夕近し

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七夕のことなど忘れていた。

病院帰りにマクドナルドに寄ってコーヒーを飲みながらしばらく推理小説を読んだ。その後、下のスーパーに買い物に行ったら、竹が通路の真ん中に設えられていた。竹には、隙間が無いくらい沢山の短冊が吊り下げられてゆらゆらと揺れていた。

普段はこんな情景に心を動かされることなどないのだが、病院へ行って疲れていた所為なのか、妙に懐かしく感じて近づいて行った。

 

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短冊に書かれていた字は、ほとんどが幼い字で、小学校低学年の子供たちが書いたもののようであった。

みんな、幼い願いごとを書き認めている。はるか昔に、幼かった私もきっと書いたに違いないような願いごとだ。

 

ところがその頃、私が育った家ではどんな七夕をやっていたのだったか、振り返ってもよく思い出せない。

母に、七夕が近づいてくる頃、よく織り姫と彦星の話が載ったお話を読んでもらった記憶はあるのだが、それは七夕そのものの記憶ではないし……。

確かに、七夕の思い出はあるようだし、なんともいえない切ない感覚は残っているのだが、すべては靄の中にあるようだ。

 

もうすぐ七夕だ。近所の商店街では、七夕祭りがあるに違いない。

今年、牽牛織女は巡り会うことができるのかな?

私も、幼いころの自分を愛おしんで、笹でも買ってきて短冊で飾るとするか。