教育基本法

 第一次安倍政権は、教育基本法を改悪した。

 改悪される前の教育基本法は、次のような前文で始まる。

 「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。

 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造を目指す教育を普及徹底しなければならない。

 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。」

 ここには、日本国憲法が掲げる理想を、教育の力で成し遂げていこうという、未来へ向けての活力と希望が溢れている。

 日本国憲法の前文には次のような理想が掲げられている。

 「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」

 ところが、現在の教育基本法の前文は、以下のように書き替えられてしまった。

 「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。

 我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。

 ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。」

 なんとも、緊張感がなく、自律的な精神活動の感じられない文章である。どんな人間が書いたのだろう。まるで学習指導要領のような文言が連ねられた、夢も希望も感じられない文章だ。仕事上の義務感から、仕方なく仕上げた文章に違いない。元の教育基本法のうちに脈打っている精神を深く考えることなく、文言を修正したり付け加えたりしただけの文章。曇っていて薄ぼんやりとしている欺瞞的な代物だ。

 例えば、「世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである」と「願う」だけなのに対して、以前の教育基本法は、「世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した」と「決意」という言葉が使われている。どちらが、潔くてはっきりしているか明白だろう。

 さらに、教育の目的について、以前の教育基本法は次の二つをあげている。

 1. 個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成

 2. 普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造

 簡潔で、これ以上のものはない。何しろ、基本法なのだから、個別具体的なことを網羅的に取り上げる必要はない。ところが、現教育基本法の目指す教育は、次のように冗漫になる。

 1. 個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成

 2. 伝統の継承と新しい文化の創造

 「平和」はなくなり、「正義」と変更されている。なおかつ、道徳的な項目が二つ付け加えられて「人間」を修飾している。

 「普遍的にして」「個性豊かな文化の創造」は、もともとそこに内包されているはずの「伝統の継承」と「新しい文化の創造」という言葉に置き換えられて、より小さくて狭まったものになってしまっているのだ。

 この前文のどこが「日本国憲法の精神にのっとり」なのだろうと思う。

 どちらの前文の方が、論理に矛盾がなく、溌剌としていて、格調が高い文章か一目瞭然だろう。未来を志向している文章はどちらだ。日本国憲法とのつながりを、高らかに宣言しているのはどちらだ。

 こんな教育基本法をいただいて、学校教育を受けている今の子供達や生徒たちは可哀想だ。こんな教育基本法に縛られなければならない今の教師たちも可哀想なものだ。