娘一家がやって来る
明日、孫娘2人を連れて娘一家がやって来る。そして、4日間ほど滞在することになっている。
娘のところは年末に引っ越し騒ぎで、とても正月には帰って来れる状態ではなかった。さらには、わたしが年末に腰椎骨折などしてしまったせいで、こちらからも訪ねて行けなかった。
だから、孫娘2人に会えるのが楽しみだ。上は4歳になったばかり、下は8月の生まれだから7ヶ月である。
写真を見る限り、2人とも一丁前の様子をしている。
で、こんな直前になって奥さんが騒ぎ始めた。
朝起きるや、廊下に積んだままになっているわたしの雑本を、憎々しげに片付けなければと言うのだ。
今日言われて、できるわけがない。もちろん、前々から言われてはいたのだが、忘れていたし、奥さんだって忘れていたのだ。
それに、今夜は所属している山の会の年度総会が参宮橋のオリンピックセンターであるのだ。夕方には出かけなくてはならない。
それなのに、毛布が足りないので、これから買いに行くというのだ。
廊下の雑本の整理はあきらめてもらった。但し、毛布を買いにイトーヨーカドーに付き合うことになった。致し方ない。
なんだか、昨日の続きの曇り空がなかなか晴れず、寒くて体調が悪い。
今夜は、総会の後、新宿で飲み会もある。大丈夫だろうか。
孫娘たちが来たら、童話でも作ってやろう。こんな話が良いだろう。
ある森の近くに、青だぬきと赤だぬきが住んでいました。
青だぬきは気が弱くて自分の思っていることを強く言うことのできない性格でした。
反対に、赤だぬきは自分中心で他のたぬきのことなど考えもしませんでした。いつも自分のことだけを考えて生きていました。
そのせいで、人生の最後の最後に赤だぬきは青だぬきが邪魔になってしまい、首を絞めて殺してしまいましたとさ。
めでたし、めでたし。
寺山修司について
急に寺山修司のことを思い出した。
渋谷公会堂で劇団天井桟敷の「邪宗門」という劇の公演があった。
開場時間が来ても、公会堂のガラス扉が開かず、前に並んでいた観客が騒ぎ始めた。そのまま、扉を無理やり押し開けるような状態で、列を作って並んでいた観客たちが雪崩を打って入場し始めた。来た順番にちゃんと並んでいた人たちは、押しのけられ跳ね飛ばされて、順番など全く意味をなさないことになってしまった。
私は列の後ろの方にいたので、得をした状態だった。流れに任せて場内に入ると、なんと劇はすでに始まっていたのだ。
舞台上では、おどろおどろしい舞踊が、太鼓の音と一緒に繰り広げられていた。
もっとも、昔のことなので、確かなことは、もう、あやふやである。
その会場でやっと席に座り、目を上に向けると舞台上部の張り出しに男が立っていた。場内の混乱を睥睨しているような感じだった。寺山修司だった。背広姿のでっぷりとした大きな男だった。
こんな大男とは思っていなかったので、かなりびっくりした。
寺山修司を知ったのはいつのことだったのだろう?
高校時代にテレビで、よく競馬の解説を見ていたかもしれない。
カルメンマキが出て来たころ、彼女が天井桟敷の女優だったことを知っていたし、天井桟敷は寺山修司が主宰している前衛的な劇団だということも知っていた。
ハプニングを重視し、街全体が演劇の装置・舞台と主張して、現実の街のいたる所でパフォーマンスを行う演劇集団だと思っていた。
「書を捨てよ、街に出よ」という本も高校生の時に読んだ。
そのせいで、近江を捨てて東京に出て来たわけではなかったが、家を出るに当たって少しは影響を受けたかもしれない。
文芸誌「海」にル・クレジオとの対談が載っていた。東北弁丸出しの寺山が、フランス語が喋れるのか疑問だったから、まるで二人だけで会話を交わしているような文章には、読んでいるあいだ中ずっと違和感がまとわりついていた。
その中に、こんな箇所があった。
寺山がル・クレジオに、文章を書くとき、どんな所で書くのかと訊ねる。浜辺に寝そべりながら書くことがあるのかと。するとル・クレジオは、書斎の中ではなくどこででも書くのだ、浜辺でもと答える。すると、寺山も自分もそんなふうにして書いているというようなことを言う。
ル・クレジオは自然な感じがしたけれども、寺山のケレン味は、ちょっと形容の仕様がなかった。
母親のことも、さんざん悪く描いていた。子供の自分を捨てて家を顧みず、男遊びばかりしていた女というように書かれていたように記憶している。
映画「田園に死す」も、母親はそんな感じだった。
1970年のころ、新宿の花園神社で寺山修司の天井桟敷と唐十郎の赤テントが乱闘騒ぎを起こした。あれは、どういう顛末だったのだろう。
寺山の戯曲全集も持っていた。持っていただけで、中身はほとんど読まずに売り払ってしまった。
なんだか気になって仕方がなかったのだ。でも、真剣に読もうとはしなかったようだ。
戯曲作家寺山修司という絶対的な存在を中心に置くドラマツルギーが気に入らなかった。本人が一番攻撃していた近代演劇を、寺山修司自身が乗り越えてはいなかったように思えた。
影響を受けたといえば、どんな歴史もフィクションに過ぎないという言葉には、感心した覚えがある。その後の歴史の見方が、ずいぶん変わったし、楽になった。ただ、寺山が自分で考え出した言葉ではないだろう。誰が言った言葉なのだろう。
私の青春時代が終わって、しばらく寺山修司は消えていなくなったようだった。そのうち、デバガメとして一時ニュースになったが、こちらが仕事で忙しくなったころに、死んだというニュースが流れてきた。
若い時からネフローゼを患っていたので、それが嵩じたせいだろう。享年47歳。
なんで、今ごろ寺山修司のことを思い出したのだろう。不思議な感じだ。
寺山修司でなく、あの時代が懐かしいのだろうか。
マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや
敗戦から遠くない時期の作品。
「祖国」には気をつけないとね。哀愁とか感傷に繋がる言葉なのだから。
大時代で、下手をすると危ない言葉になってしまう。
面白くない思い出
昔、エレベーターに乗ろうとしたら、初老の男性が出て来た。すれ違う前から、すぐに、その男性の社会の窓が開いているのに気づいていた。
ちょっと紳士風な男性だったので、このままその状態を告げずに立ち去るのは、恥をかかせることになると思い、あとを追って、小声でそのことを知らせた。
すると、驚いたことに酷く叱責されたのだ。
なんで、そんなことを言うのだ! そんなことは告げなくていいのだ‼︎
そして、わたしを押しのけて行ってしまったのだ。
わたしは驚いて二の句が継げなかった。余計なお節介だったというわけなのだ。出しゃばったことはするな、ということなのだ。
こんな人もいるのだと、怒りが込み上げて来た。
確かに、相手の気持ちを考慮しないで、こちらの思い込みで行動してしまい、相手を傷つけてしまうこともある。
でも、これはどうなのだろう。わたしは何もしなくて放っておけば良かったのだろうか。
こんなことでも相手の自尊心を傷つけてしまうことがあるのだ。自尊心が傷つく人がいるのだ。怒って体をぶつけてくる人がいるのだ。
いやな思い出として、心に残っている。
よくよく注意しなければね。
かくして日は暮れる
午前中に、やり残した畑仕事をすべて終わった。
3日間農作業がつづいてかなり腰にきていたので、ほんとうに休み休みの作業だった。
保育園の園児たちが、畑に遊びに来ていた。なんさい? と聞くと、4さいと答えてくれた。
未来は君たちのものだ。こころがホッコリとする。
昼は、道の途中にある「すき家」ですませた。牛丼と味噌汁で430円。JAFカードが利いて400円になった。
テレビで国会中継を見た。
とても疲れているので国会前には行けない。今日は、無理。
明日から明後日にかけて、天気が悪くなるようだ。山は大雪になるとか。
風呂をわかし、湯船につかり、心に沈潜する。
来し方が走馬灯のように思い出される。
今日も、とりあえず生きていられる。
春野菜の植え付け
昨日、今日と借りている畑の耕作で疲れ果てた。腰もヨタヨタである。
毎年、借りる区画が移動するせいで、去年丹精込めて耕した畑ではなくなってしまう。
今回、借り受けた畑は石ころだらけで、整地をするのに、昨日は一日がかりだった。ほかの方たちは、さっさと作業を進めて、早い人は昨日のうちに全ての作業を終えてしまった。
私は、骨折の後遺症で耕すので精一杯という状態。
今日は畝を作って、ジャガイモの種芋を植え、他の野菜の種を蒔く予定だったが、畝を作る段階でかなり参ってしまった。
畝は8列作るのだが、土を掘って盛土をしたまででくたびれ果ててしまった。明日からは、天気があまり良くないらしいので、マルチが必要なジャガイモと大根の畝だけを作ることにした。あとの野菜は、天気が回復してからでいいやということだ。
午後になって、奥さんが現れ、昼食の後、一緒に作業をしてくれた。
大根は1列に14個の穴を開け、中に5粒ずつタネを蒔いた。ジャガイモはメークインとキタアカリの2種類の種芋を6個ずつ植え付けた。
どういうわけか、ジャガイモはいつも失敗していて、収穫が他の人たちに比べて少ない。芽が出ないことが多いのだ。今回はうまく行きますように。
他にネギとインゲン、かぶ、ラディッシュ、ルッコラ、レタスの種を蒔く予定である。
広い畑に、最後はわれわれ二人だけが取り残された。
もう、今日の作業は終了。農具を片付けて、農園を後にした。