終戦記念日に山に登るということ
終戦記念日なのを忘れて山に登ると、いいことは起こらない。
戦時下を生きた人々の苦しみ悲しみを、せめてこの日ぐらいは思い起こさなければならないのに。
日本軍が行なった無謀な戦争について、たまには考えなければならないのに、すっかり忘れていた。
皇軍兵士だった、親父が祟ったのかも知れない。
以下、のんきな私の登山行。
バスで平丸の登山口に向かったのだが、トイレがないのに気づき、東野の登山口から登ることにした。
バスから降りて、それらしき場所を探す。昭文社の地図には、トイレの文字がちゃんとあるのだが、まったく見つからない。
道路脇の道標に、トイレマークとここから10分と記された表示を見つけた。
切羽詰まっていたので、10分など致し方ないと思い、表示の指し示す方向に道を外れた。
すると、またしても標識。今度は8分と書いてある。
ところが、行けども行けどもトイレは見つからない。お寺さんのトイレらしいのだが、田んぼの中のあぜ道を、下の集落に降って行くような具合なのだ。なんだ? これは! せっかく登って来たのに、また登り直さなくてはならないじゃないか。
などと思ったが、ここまで来れば、とにかく行き着くしかない。
あぜ道を進んで行くと墓地が現れた。その横を通り抜けて行くと小さな祠の下に急な坂道があって、その下にお寺があった。ところが境内を見渡しても、トイレらしき建物がない。
何度もなんども、境内を探し回ったが見つからない。
お寺さんの住まいが横にあったので、呼び鈴を鳴らす。返事がない。もう一度ならす。うんともすんとも答えない。なんだ、坊主め。お盆で、てめえがどこかに遊びに行っているんじゃないだろうな。
気が焦っているものだから、考えることが乱暴になってくる。
もはや限界、元来た道を引き返し、坂道を駆け上がり、墓地の前に広がる雑木林の横にしゃがみ込み、用を足すことになってしまった。
仏様たち、ご勘弁のほどを。
もとの道に戻るまでに小一時間ほどロスをしてしまった。出だしからこの有様だ。
林道を登り口まで歩いて行く。
またしても!
どうもお腹の調子が悪い。平日で、他に登山者がいないことをこれ幸いとばかり、慌てて道端にしゃがみ込む。
その後も、こんなことの繰り返しで、その度に持って来た正露丸糖衣錠のお世話になった。
そのせいで、体力を相当失ってしまった。
何も食べる気にもならず、行動食もほとんど口にせずに登り続ける。口にするのは、リプレニッシュという粉を水に溶いて作った飲料水のみ。
何も食べないものだから、シャリバテ状態で登り続けた。
普通なら、もう登山を諦めて引き返すのが賢明なのだが、何しろ交通の便が悪い。
帰りのバスは、何時に来るのか分からない。特に、お盆の時刻表で運行しているので1日2本ぐらいしかバスは来ないのだ。
だから、引き返す気にならない。それなら、蛭ヶ岳まで登った方がましというものだ。もう、ほとんど半分近く来ているはずなのだからと思って、ともかくも登って行った。
天気は登り始めは良かったのだが、頂上が近くなるに連れて崩れて行き、頂上ではすっかり霧の中だった。
蛭ヶ岳の頂上に到着するまでに7時間以上かかってしまった。標準タイムより2時間も遅い。
取り敢えず、登った証拠に一枚自撮り。
小屋に着くと受付で名前と住所と年齢と職業を記入する。
職業はないので無職と記入したら、山小屋の親父が、働いてないんだ!悠々自適じゃないですか、私なんか69歳なんだよと嘆いたように言った。
悠々自適なんかじゃないのだがな、と思ったが説明するのも面倒だ。
いっぱい働いて来たから、もう働くのはいいんです、と適当に答えたが、なんだか言い訳じみていて自分が嫌になる。
なんで山に来て、山小屋の親父にこんなことを言われなきゃならないんだよ。
面白くないと言う感情が、ずっと尾を引いた。
その日の泊り客は全部で3人だった。男女のアベックと私のみ。広い大部屋の向こうとこっちに離れて場所をとった。
あんまり静かで、寂しいほどだ。
お腹の具合が悪いので、せっかく持って来たウイスキーも飲めない。
夜になるとガスがますます濃くなって、眼下に広がっているはずの夜景も空の星も全く見えない。
食事の後は、早々に寝床に就いた。
翌朝は、強風と横殴りの雨つぶが吹き荒れていた。
男女のアベックは、西丹沢に縦走するというので6時過ぎに小屋を出て行った。
私は、コーヒーを飲んだ後はもうやることもないし、小屋の親父と二人でいても面白くもないので、7時前に強風の中を丹沢山に向かって出発した。
富士山も何も見えない。すべてはガスの中で、視界は200メートルばかり。
とにかく風が強いので、木道で飛ばされないように気をつけなくてはならなかった。
20分ほど降った時、向こうから20歳前後の東洋系の外国人の顔立ちをした二人連れが登って来た。なんとほとんど普段着のままである。
帽子も被っていない。二人とも息を切らして山頂を目指している。
こんにちはと声をかけると、こんにちはと返事をして来た。
気をつけてくださいと言うと、はいと元気そうに返答して、そのまま行ってしまった。
二人が行ってしまってから心配になったが、山荘は近いし、若いから大丈夫だろうと思うことにした。
丹沢山までの道では、この若者以外に二人のトレラン走者に追い抜かれ、一人のトレラン走者に出会った。
やはり木道を吹き抜ける風は強く、崖下に吹き飛ばされないように何度も立ち止まらざるを得なかった。
丹沢山頂でもトレランで登って来た人に出会った。私が蛭ヶ岳方面の状況を伝えると、彼は丹沢山から引き返して行った。
丹沢山から塔ノ岳の間も強風と霧の中だったが、それまでのコースよりずっと歩きやすい。
1時間半ほどで塔ノ岳に到着した。塔ノ岳頂上もガスと強風の中だった。時々小雨が混じる。
その頂上に10人ほどの中学1年生の一団が、ほとんど普段着のまま登って来ていた。
びっくり仰天。
尊仏山荘に入って、コーヒーを注文していると、その中学生たちが入って来た。町田の中学生らしい。
みんなでカップラーメンを注文して、瞬く間に食べてしまった。
何も食べるものも持参していないようであった。ザックもカバンも持っていない。
ヤッケは着ているが、ただそれだけ。
尊仏山荘の親父が、よくこんな天気に親が登ることを許してくれたね、と問いかけると笑って何となく生返事をしていた。
大倉尾根を登って来たというので、お節介だけれど、登って来た道と同じ道を帰るように伝えた。表尾根を下りて、尾根筋で吹き飛ばされたりしたら大変なことになる。
少年たちは、カップ麺を食べ終わると、大騒ぎをしながら、再び、強風の中を駆け下りて行った。いやはや、何と言えばいいのだろう!?
尊仏山荘の食堂には、猫のミーちゃんの遺影が祀られていた。何と神棚まで新しくできている。
ミーちゃんは尊仏山荘の主のような老猫であった。もう亡くなって2年になるという。
遺影の前で今は神様になったミーちゃんに二拝二拍手一拝。
今気づいたが、写真をよく見ると、神様ではないようで、仏様のように見える。吉祥天なのか弁天様なのか、はたまた観世音菩薩なのか、よく分からない。
大間違いをしたが、まあ、気持ちの問題だ。
大倉のバス停に到着したのは、蛭ヶ岳山荘を出発してから7時間後であった。
下界は、上天気の夏の日差しに溢れていた。
山の天気と下界とは、こんなにも違うのだ。
当初の目論見はすっかり外れて、ずっと曇りと霧と雨と強風の中の山行だったが、こんな山行も久しぶりのことだったので、十分満足している。
死んだ親父も、いい年をしてバカなことをしていると、苦笑いをしていることだろう。
来年の敗戦の日は、山になど登らず下界で静かに平和について考えることにしようと思う。