霧の大学構内にて
学生劇団「自由舞台」の大学祭での公演で、唐十郎の「続ジョンシルバー」をやったことがある。
1971年の話だ。
みんな金がなかった。劇団にも学生にも。
舞台のセットを作らなければならないのだが、ベニヤ板を買う金銭が決定的に足りなかった。どうにかしなくてはならない。
それで仲間のTの提案に同意して、何人かで構内に立て掛けてある立看板を拝借することにした。つまり、あからさまに言えば盗むということだ。
明るいうちに構内を巡って、いくつかのタテカンに目星をつけておいた。
まず第一に、舞台のアトリエに近いところにあるタテカンである必要があった。遠いと運んでくる途中で見つかる可能性が大だ。
アトリエの近くには、革マルの看板がたくさん立てられていた。それから日学同という右翼学生のグループの立て看板がいくつか立て掛けてあった。
あとの報復がこわかったので、一番数の多い革マルのタテカンは最初から外した。選んだのは日学同の看板だった。
三島由紀夫が自決したとき介錯をした森田必勝が属していたとはいえ、大学での勢力は革マルとは比べ物にならなかったので、安心だったのだろう。
夜、構内の人通りが途絶えた頃を見計らって、アトリエに近いタテカンから順番に運び込むのだ。
霧が出ていて、構内を街灯の明かりがボンヤリと映し出していた。
その中を、ソレッとばかりにTと私が日学同のタテカンを両側から持ち上げて劇団のアトリエがある9号館に運び込むのだ。
何度かそんな行動を繰り返して、舞台に必要なベニヤ板を確保することができた。
翌日だったか、その次の日だったか覚えていないが、構内に日学同の革マルに対する抗議声明が書かれた看板が掲げられていた。幸いなことに、彼らは完全に勘違いをしていたのだ。
遥か昔、切羽詰まった出来心からやらかした行動だった。今更だけれども、どうか許して欲しい。
公演予定の前日だったか、革マルの大学祭実行委員会の担当者が、背広姿で二人現れた。
文連に加盟していないのに、チケットを販売して公演するのは中止しろと言う。もし、どうしても実施するというのなら、こちらにも考えがあると脅して来た。
こちらにも考えがあるというのは、実力行使をして公演をぶっ潰すということだった。
仕方がないので、正式な公演ではなく舞台練習ということにし、チケットもカンパ代ということに変更して上演した。
上演回数は、マチネを入れて二日間で4回やったと思う。
客の入りは、毎回、大入り満員で、アトリエから溢れるほどであった。
公演が始まってしばらくした時に、とんでもないことに気がついた。
舞台上に作ったセットの上の方、照明が届かず薄暗いあたりに、うっすらと日学同という文字が浮かび上がっていたのだ。ペンキを塗って消したはずなのに、塗りが甘くてペンキが乾いた後、元の文字が浮かんで来てしまったのだ。
冷や汗ものだった。芝居を見ている大勢の観客が気づかずにいてくれることを願うばかりで、芝居が終わるまで気がきではなかった。
幸い、観客からは何の指摘もなかった。怒り狂って抗議をしてくる学生も現れなかった。
おそらく日学同の学生に、芝居を見るような連中はいなかったのだろうと思う。
それとも、気がつかない振りをしてくれたのだろうか。
はるか昔の夢のような思い出を話してしまった。