立山山行
暑くて、暑くて、東京には居られないと思い、また、これが一番気にかかっていたことなのだが、このしつこい腰痛の状態で山に行くことができるかどうかの確認もあって、8月の1日から3日間、立山にキャンプに出掛けた。
1日目
高速バスで信濃大町まで行き、その後、路線バスに乗り換え扇沢に向かった。水曜日なのでそれほど人は多くない。
扇沢から乗ったトロリーバスも、ゆったりと座って行くことが出来た。
ケーブルカー、ロープーウェイ、そして再びトロリーバスと乗り継いで、やっと室堂のターミナルに到着した。
気温18度ちょっと。やって来た甲斐があったというものだ。
バスターミナルで腹ごしらえをしたあと、雷鳥沢キャンプ場に向かった。
キャンプ場の手ごろな場所にテントを張り、管理事務所で手続きをしたあとは、ずっと夕方までぼんやりと過ごす。これが至福の時間。
日没が7時過ぎなので、夕方になってもまだ明るい。
川を渡って登山道を少しばかりぶらついて回った。
その後、雷鳥沢ヒュッテで温泉入って、ビールを買って、ツマミで飲んで、足りないので、持って来たジンビームを飲み始める。
明日は雄山と大汝山に登る予定だ。体調が良ければ、別山まで足を伸ばすかも知れないが、腰の調子を見るのが第一目的なのだから無理はしないつもり。
テントの外の石に腰掛けて、夜空の星を眺めながら、ジンビームを飲んでいたが、そのうち、だいぶん寒くなって来た。
周りのテントも、次第に灯りが消えて行く。私もシュラフに潜り込むことにした。
2日目
1人だからあくせくしない。自分のペースで進むことができるのが単独行のいいところだ。パーティーだとこうは行かない。全てが決められた時間に行動しなくてはならないのだ。
ゆっくり食事をとって、8時過ぎにテン場を出発した。
直接、一ノ越に続く道をたどった。この道は初めて通る。この道を通って雄山に向かう登山者は少ない。というより、私以外は前を行く年寄り夫婦の二人だけだった。
岩だらけの道が続いて行く。日差しが強いので歩がなかなか進まない。
一ノ越に着いたあと、雄山に至る登山道を見上げる。びっくりするような急なルートが目の前に広がっていた。前にも登ったのだが、こんなに急なルートだったような記憶がない。
しばらく休憩した後、諦めて登り始める。遅々として進まず。途中、3回ほど休んだ。
とにかく、あがいているうちに頂上に着くことが出来た。
この体調で、雄山に再び登ることが出来たので、なんとなく感動してしまった。
山頂は人が多いし時間もかかったので、先を急ぐ。
まずは大汝山。
結構遠かった! 休憩所があり、その傍から20メートルほど登ると頂上だ。
大汝山休憩所は、映画「春を背負って」の舞台に使われた。休憩所の中にある入り口の横には映画で使われた「菫小屋」と書かれた看板がさりげなく置かれてあった。
映画のことを知らない人には、なんのことか分からず混乱を来すだけだろうが。
ぐるっと廻って雷鳥沢に下りることに決めて、冨士ノ折立に向かった。前回は疲れていたし、荷物も重かったので素通りしたところだ。
今回も疲れていたが、もう来ることがないかもしれないので、登ることにした。
とりあえず、廻ることは出来たが、時間もかかるし、体力はついて行かない。腰も重い。
俺はどうなるのだろう? 山に登り続けることができるのだろうか?
雷鳥沢キャンプ場は、昨日より人が多い。
今日も、雷鳥沢ヒュッテで温泉に入り、ハイボールを2缶買って飲んだ。
明日は奥大日岳も弥陀ヶ原もよして帰るかなと、かなり弱気になる。
3日目
次の朝起きたら、体調もいいし気力も戻っていたので、やはり奥大日岳に登ることにした。
朝飯を食べた後、支度をすませてテントを後にする。
奥大日岳には登ったことがない。奥大日岳に至る登山道と劔御前に至る登山道の分岐で、間違えて劔御前への道を登ってしまった。ロスすること20分ほど。何をしているのだか!
最初でつまずいたけれど、後はどうにか順調に進んで、2時間ほどで頂上に到着することが出来た。
途中、神戸から来た女生徒たちの一団に追い越されたり、また、追いついたりしながら登っていった。
女生徒たちは賑やかだ。
同行の先生の話だと、夏休みの恒例の行事であるらしい。
奥大日岳の頂上からの劔岳は、あいにく雲の中で見えなかったが、下山途中にほんの少しだけ顔を出してくれた。
頂上には20分ほどいた。
雷鳥沢に帰り着いて、すぐにテントを撤収するつもりだったが、直射日光に焼かれたせいで素早く体が動かない。雷鳥沢キャンプ場を出発するまでに1時間も掛かってしまった。
行きは良い良い帰りは恐いで、室堂のターミナルまでの上りの階段の辛かったことといったらなかった。
ともかく、3時ちょっと過ぎのトロリーバスに間に合うことが出来た。
室堂から扇沢に下りて、信濃大町で予約しておいた高速バスにギリギリで間に合って、夜遅く東京に帰って来た。
下山したら、もう室堂とは別世界の暑さだった。双葉のサービスエリアでの休憩中は湿度も加わった。暑いのでソフトクリームを食べた。
さて、腰椎骨折後の山行は、腰の調子の確認になったのかどうか。
まだ本調子ではないし、このまま、ずっとこんなどんよりした腰の重さが続いて行くような気もして、心が晴れず不安なままだが、どうにかやって行くしかないと思っている。
迷子のヨークシャーテリア
CoCo壱番屋でカレーを食べた後、奥さんと別れてハンフリー視野検査を受けるため病院へ向かった。
その途中、駅の近くまで来た時、1匹のヨークシャーテリアの仔犬が、ヒョコヒョコと道路を渡って来た。鎖も何もつけていない。
道路の向こうに青年が一人、どうしようというふうな様子で立っていた。
仔犬は、こちらに渡るかと思うと、方向を変えて反対側にヒョコヒョコと走って行く。
道路には車が何台か、続いて走って来る。道路に出て、仔犬がいることを手を振って指し示した。
車の運転手は、一瞬、怪訝な顔をするのだが、仔犬に気づくと慌ててスピードを落とし、仔犬を避けて徐行しながら通り過ぎて行く。
仔犬はというと、自動車の存在を全く気にかけていない。
道路の両側をよく見ると、もう1匹仔犬がいて、心配そうに道路を渡ってウロウロとしている仔犬を見ているのだ。
道路を渡ろうとしている仔犬は、もう1匹の仔犬のところへ行こうとしていたのだ。
歩道で待っている仔犬の方が、なんだか兄さんのようで、落ち着いているように見えた。道を渡っていた仔犬は、兄さん仔犬の後をがむしゃらに追っているようであった。
とにかく、このまま放っておくと、そのうち車に轢かれてしまいそうなので、青年と二人で2匹の仔犬を、片側の歩道にどうにか避難させた。
青年が飼い主で、鎖をして散歩をしている途中で逃げられたのかと思っていたが、彼はただ通りかかって、道をうろついている仔犬を目にしただけだった。
歩道の上で盛んに尻尾を振っているのだが、どうしていいか分からない。青年が110番して警察に保護してもらいましょうと言って連絡をした。
そのうち、赤ん坊を抱いた若い父親が、一緒に仔犬たちを見守る仲間になってくれた。
3人で仔犬をあやしながら警察が来るのを待っている。
仔犬は、ヨークシャーテリアなので、目が大きくて顔も毛がふさふさとしている。ただ、近づいて来た仔犬の背中を撫でてやると、細い背骨が浮き出ていることに気がついた。
これは、ひょっとして餌を与えられておらず、捨てられたのではないのか、と初めて気がついた。
首輪もしていない。
ダンボールか何かに、2匹揃って入れられて捨てられたのを、どうにかしてやっと抜け出して来たのではないのだろうかと、そんな気がした。
しばらくすると、パトカーがやって来て、警官が2人降りて来た。
2人の警官は、我々のところに近づいて来ると、各々1匹ずつ捕まえて、パトカーに放り込んでしまった。
中の1人は、私の目の前で兄さん仔犬の首根っこを掴んでそのまま引き上げようとしたものだから、仔犬が苦しくてもがく。これではダメだと思ったのか、首を掴むのはやめて、抱え直すとパトカーに連れて行ってしまった。
この時になって、急に心配になって来た。
これは、仔犬たちは保護されたのではなく、このまま保健所に連れて行かれて、そこに収容されてしまうに違いない。
恐らく1週間収容されて、引き取り手が現れない場合は、むごい話だが薬殺されてしまう。それが、飼い主の見つからない犬や猫に対して取られるこの国の行政の対処の仕方なのだ。
今日で仔犬たちが保護されてから4日目になる。
私の想像はいたたまれないほど大きくなり、仔犬たちのことが気になってしょうがない。
せっかく抜け出して、どうにか生きることが出来たのに、収容所で殺されることになってしまうのだ。そのことに私は、結果として、積極的に関わってしまったことになる。
仔犬たちを見殺しにしていいのか。
このままでは、私の神経が参ってしまいそうなので、意を決して駅前の交番を訪れた。
経過を話して、仔犬たちがどうなったのか尋ねると、若い警官が丁寧に答えてくれた。
あの後、この交番に保護されていたのだが、直ぐに飼い主さんが現れて、引き取って行ったというのだ。
なんと、保健所ではなかったのだ。ああ、よかった!
とりあえずは、あの2匹の仔犬たちは死ななくて済んだのだ。
私は、今、緊張から解き放たれた状態でいる。
ただ、交番の警官の話をそのまま素直に信じていいものなのだろうか。大丈夫なんだよね?
サーカスを観て来た
相模女子大学グリーンホールでサーカスを観て来た。
『サンクトペテルブルク国立舞台サーカス』という名前のサーカス団だ。
私は、サーカスというものを、子供の時から今に至るまで観たことがない。だから、今回、ロシアから来たこのサーカス団のサーカスを観るに当たっては、期待のせいでかなり興奮していた。
ただ、直前になって、このサーカスは舞台の上でやるということを知ってしまった。それなら、中国の雑技団の公演と同じではないか。私は、テントで演じられるサーカスが観たかったのだ。
グリーンホールに行ってみると、やはり小さな子供たちがいっぱいいる。それと、その孫を連れた老人たちがいっぱいいた。
奥さんが恥ずかしそうに、私たち場違いのような気がしない?
孫娘の何々ちゃんを誘うんだったね、と話しかけて来た。
それに越したことはないが、孫娘は遠くにいるからしょうがないさ。
このサーカスの司会は日本人の俳優ということで、進行はとてもスムーズで滞りもない。
本物の熊はいないけれども、熊のぬいぐるみも出て来て、子供たちは大いに盛り上がる。
司会者:さあ、みなさん、大きな声で呼んでみましょう!
子供たち:はーい!
司会者:クマの何とかちゃーん!
子供たち(とじいさんばあさん):何とかちゃーん!!
演目は空中ブランコから始まって、最後の男性5人女性2人の若者によるアクロバットまでテンポよく展開される。
数多くのフラフープを同時に回す女性。
片手逆立ちの柔軟体操をする気味の悪い黒づくめの男。
天井から垂れ下がった細いカーテンを使って逆立ちや回転をする男。
早替わりのマジックをする男性と女性の二人組。
そんな演者たちが次から次へと登場して楽しい曲芸を見せてくれる。
合間合間にピエロの二人組が現れて、観客を沸かせてくれるのだ。
子供たちは大喜び。ピエロのちょっかいにも素早く反応する。
子供の脳みそは、本当に柔らかい。世間体など気にするも何も、世間体などということを知らないから、自分たちの驚きと喜びの中に、直接浸ってしまうことができるのだ。
正味1時間10分ほどで舞台は終了した。まあ、子供相手ならこれが限界だろう。
われわれ年寄り夫婦も、それなりに楽しめたというものだ。
ただ、私はテントの中の円形の土間の舞台で演じられるサーカスが観たかった。
本当の熊や虎や馬が出て来て演技をしてくれるサーカスが観たかった。
このサーカスの公演のチケットを買った時に、少しばかり勘違いをしてしまったのだ。まさか、劇場の舞台の上でやるサーカスだったとは思わなかった。
子供のころ、巡業してくるサーカスといえば、何だか怖くてわびしい雰囲気がしたものだ。
遅くまで遊んでいると「拐われてサーカスに売られてしまうよ」と親には言われていたような気がする。
スーラの絵にあるようなサーカス、中也が思い描いていたであろうようなサーカス、フェリーニの映画の中に出てくるようなサーカス。そんなサーカスが観たかったのだ。
さて、いつになったら見ることができるのだろう。
帰りに、ロビーで孫娘のために、女の子の絵が描かれている小さなハンカチを買ってグリーンホールを後にした。
結城市へ
日曜日、妻に誘われて結城市の市民文化センターへ「茨城ダルク26周年フォーラム」に参加するために出かけた。
茨城ダルクには長い間息子の一人がお世話になっていて、今は、別な施設のスタッフとして働いている。
息子は、薬物依存症のせいで10代の終わりから、ダルクを出たり入ったりヤクザ組織にも出たり入ったりして来た。今はそれなりに落ち着いて、クリーンな状態を何年も続けている。もう、いい歳になってしまった。
異常な暑さの中、結城駅にお降り立ち、会場の市民文化センターに汗をぬぐいながら歩いて行く。
センターのホールに入るとガタイのいい半ズボンのオッサンが近づいてきて声をかけてきた。
初めは、誰だかよくわからない。向こうも街で出会っても親父だと気がつかないと言っていたが、私の方はこうして直に目の前に見てもなかなか息子の顔に結びつかない。
息子の話だと、会うのは18年ぶりだそうだ。18年経てば、ずぶんと変わってしまうものだ。
仕方がない。事情を話せば長い話になるし、上手くまとめることもできない。
ともかく私の方は、息子と会うことができるまでに18年の年月が必要だったというだけの話だ。
フォーラムでは入所者の人たちでエイサーの演技があったり、
とても素晴らしい和太鼓の演奏があったりしたのだが、『まっ白の闇』という映画の先行上映があったので、その紹介をしておこうと思う。
薬物依存症の弟を救おうとする兄とその家族の再生の物語で、監督の実話を基にしている。
主演は百瀬朔という若手俳優で、何となく中居正広に似ている。兄役は、小澤亮太というこれも若い俳優である。二人とも、どこかで見たことがあるような俳優なのだが、あまりよく知らない。しかし、両人ともに映画の役中人物のリアリティーを表現することのできる実力派であることは確かだ。
監督は内谷正文という方で彼が現実には映画の中の兄に当たる。
友情出演といえばいいのだろうか、村田雄浩が茨城ダルクの代表である岩井喜代仁さんの役を、映画の中では岩谷という名前で好演している。
わざわざこのフォーラムに合わせてやって来て、舞台で挨拶をしてくれた。
実際の薬物依存症は映画のように上手く回復してはいかない。何度も何度も同じようなことを繰り返して、家族に途方もない苦しみを与え続ける。
映画は、ハッピーエンドで締めくくられるが、家族に薬物依存症を抱えたことのある私のような者にとっては、何だか綺麗事で締めくくっているような感じがしてしまう。
ただ、もっと深く切り込んで行けば絶望しかないことになってしまうかもしれない。そういうことになれば、世間は薬物依存症ということに目を背けることになってしまう。
ともかくも薬物依存症について正面から向き合って描かれた最初の映画だろう。
まとまらないことを書いてしまったが、映画『まっ白の闇』の公式サイトを紹介しておくので、ぜひご覧あれ!
薬物中毒の恐ろしさと、薬物からの回復の場としてのダルクというものがよく分かるはずだ。
劇場公開は、まだ先になるようだ。
映画を観おわって、販売コーナーで特製のTシャツとサイン入りのポスターを買った。フォーラムが終了後、ホールにいた息子に別れを告げて会場を後にした。
今度はいつ会えることになるのだろう。
また18年も会わないということはないだろうが。
以前よりは、わだかまりは小さくなっているように感じられる。
夕方なのに依然として暑い日差しが照りつけている道を、妻と二人で結城駅まで歩いて行った。
上高地へ
暑い東京を離れて、今、中央高速を走るバスの中にいる。上高地へ向かっているのだ。
中央道日野のバス停、6時35分発。
家を早くに出て来て良かった。まだ、歩くのに辛いほどの暑さではなかった。
今、バスは初狩を越えて笹子トンネルに向かっているところだ。
客は三分の入りというところか。空いていて丁度いい。
バスは、自分で運転するのではないから、気楽なものだ。高速道路を自分で運転するのは、もう、面倒に感じてしまう。疲れ方が違うので、松本に行くのなら、本当はバスがいい。
上高地は、何度目になるのだろう。
毎年、何度も行っているから、子供の時から数えたら、何回行っているのか分からない。
でも、今年は、これが初めての訪問になる。
松本に行くのも今年になって初めてだ。
本当に腰椎骨折が、どれほど私の人生にダメージを与えていることか。
今回の目的は、山に登ることではない。だだ単に、小梨平のキャンプ場で一人でキャンプをして来ることだけだ。一泊しただけで、明日は帰る。
体調が良ければ、上高地を散策してみることもできる。
腰の調子との相談だが。
バスの窓から左手に甲斐駒ケ岳が見える。右は、八ケ岳のような茅ヶ岳。
暑さのせいなのか、山影は薄ぼんやりとしていて、尾根は雲が覆っている。
右手の茅ヶ岳と思った山は、やっぱり八ケ岳だった。もう、雪は皆無。
12時丁度に、上高地のバスターミナルに到着した。
小梨平にテントを張る。
張り綱の取り付けが、雪山用になっていたので、外して付け替えた。
ペグが1本ダメになっていた。
つまりは、点検も何もせずにテントを持って来たということだ。
初めからキャンプ場だというので、すっかり気が緩んでいる。
でも、目の前に穂高連峰を見ると、心が洗われるような感じになる。
これから、キャンプ場の周りをぶらついて来ようと思う。
陳腐な予知能力?
私は霊感とか予知能力とか、超自然現象とかの類いを全く信じない人間だ。
だから、幽霊だとか霊魂なども信じちゃいない。
神の存在も信じない。人間は死んだら、それで終わり、無に帰るだけのものなのだ。
ただし、暗闇はなんとなく恐ろしい。でも、それは幽霊や魑魅魍魎が居るから怖いのではない。
暗闇は、無防備で生命が危険に晒されるからなのだ。そのような経験を積んで来た我が先祖の遺伝子の記憶が恐怖を感じさせるのだろう。
ところが、先日、おかしな体験をして、頭が混乱することになってしまった。
散歩をしていると、何となく昔の職場の事務のHさんのことが思い出されて来た。30年以上も前のことだ。
彼女は、私より少し年上で仕事をしっかりとやる穏やかな女性だった。
勤務していた高校が、かなり大変な状態だったので、仕事に手を抜かないが穏やかな女性が事務職にいるというのは、ずいぶんと助かることだった。それに、彼女は組合員でもあった。
学校にも労働組合に入らない教職員はかなりいる。労働組合を毛嫌いして入らない人もいれば、労働組合というものがよく分かっていない人もいた。組合費を払うのがもったいないと思う人もいた。
政治的なことが理由で入らないという人も、もちろん、いた。
労働組合というのは、労働者の生活を守るために存在しているのが基本なのだがなぁー。それが理解できないのだ。
そのくせ、労働組合が勝ち取って来た厚生面の様々な権利だけは、まるでお上が初めから与えてくれていたように享受している。
異動の時期になると、組合員でもないのに、泣きついてくる職員もいた。労働者の生活を守るのが、労働組合の仕事なのだから、非組の人たちのためにも活動したけれど、大きな矛盾であることは確かだ。
そんな中で、Hさんは、活動家ではなかったけれど、組合の意味がちゃんと分かっていた組合員だった。
そんなことを考えながら歩いていると、散歩をしている道の向こうから女性が日傘をさして歩いて来た。
なんとなく顔を見ると、なんだかHさんに似ている。嘘だろと思ったけれど、声が出てしまった。
「あれッ、Hさんじゃありませんか? 」
怪訝な顔をする女性。
「私、◯◯ですよ」
「あれッ、お久しぶり。この近くにお住まいなのですか?」
「ええ。Hさんは?」
「小学校の向こうに住んでいるんですよ」
「お元気そうで、云々」
「◯◯さんも、云々」
「いやーッ、年末に腰椎を折ってしまったんですよ」
「それは、大変だったですね、云々」
「ビックリですね。近くだから、また、お会いすることもあるでしょう」
「ええ、ビックリしました。それでは、また、お元気で」
などという立ち話をして、お互いに別れたのだが、歩いているうちに、混乱して来てしまった。
今のは、一体なんだったのだろう?
Hさんのことを思い出しながら歩いていたのは、今しがた彼女に出会う前だったのか、それとも、出会った後に、私が勝手にそのように勘違いをしてしまったのか、分からなくなってしまった。
確かに、彼女のことが急に思い浮かんで来たら、目の前に、彼女が現れたように思うのだが、私の頭が混乱していただけなのかもしれない。
歳をとって、脳みそが崩れて来ている可能性はある。大いにあるので、時系列が入り乱れてしまったのかもしれない。
錯乱の前兆?!
単に、偶然なのかもしれない。
因果関係などを求めるから、妙なことを考えてしまう。
役にも立たない予知能力が備わったのだろうか。これは有り得ない。
虫の知らせ? どんなことの? 虫の知らせなんて、いいことには使われない。
事によると、終わりなのかな。
それなら、何だって起こる。
タイの少年たちの洞窟からの救助
タイで洞窟内に閉じ込められていた少年サッカーチームの13人の子供たちが、全員無事に救出された。
この救出にはタイ海軍の特殊部隊がたずさわっただけでなく、各国のダイバーも協力したということだ。
ただ、日本からダイバーとして誰かが協力したという話がないのが残念だ。
日本政府が、救出に協力を申し出たというような話も聞かない。
タイは、昔からの親日国で、バンコクにも沢山の日本の企業が進出しているはずだ。
はるか昔、20歳の頃、バンコクに1月余り滞在したことがある。その頃のバンコクは、広大な緑地の中に、低い家屋が点在しているような街であった。
高い建物は、東京銀行のビルが、バンコクの中心部に建っていただけだ。
ベトナム戦争の真っ最中で、米兵が街に溢れていたし、彼らに連れ立って歩く女性たちもいた。
ボーリング場はあったが、日本とあまり変わらない値段で、タイ人の庶民には手の出ない施設だった。
映画館は、完全入れ替え制で、映画の終了時には、タイ国王が作曲したというタイ国王を称える歌(国歌だったのかな?)が流れ、観客は総立ちして敬意を表したものだ。
国民は、とても敬虔な仏教徒で、街の至る所にある仏像の前で、その都度拝跪していたものだ。
男は、一度は仏教徒として、僧籍に入ることが義務づけられていた。
今は、どうなっているのだろう。
そんな国、タイの子供たちが洞窟に閉じ込められてしまったのだ。
日本が協力したって問題ないではないか。
日本は素晴らしい。日本は一番だ、というような番組が、いつも放送されている。クールジャパンなどと言って、日本人が日本人を褒めまくっているのに、どうして、こんな時に、救援に行がなかったのだろうか?
そのことに関する報道が、一切ない。
なんだか寂しいし、なんだか情けない。