漫語

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中国語講座に行った帰り、橋本のドトールに立ち寄ってコーヒーを飲んでいる。

このブログは、子供たちに私の思い出を残そうという目的で書き始めた。

考えてみると、親としての私は息子や娘に、自分がどのように生きて来て、何を考えていたのかということを、あまり伝えて来なかった。

大学は文学部に行って、演劇を目指したこともあったが、そんな目的は、とうの昔に捨て去ってしまった。

齷齪と人生を生きて、知らない間に、気づいたら人生の終わりを迎えるような歳になっていた。

下らないと思っていた在原業平の辞世の和歌が、切実に胸に堪えてしまう。

ついに行く 道とは かねて聞きしかど 昨日今日とは 思はざりけり

いつか死ぬとは分かっていたのだけれど、それが昨日や今日になるとは思わなかった。

そんな和歌だ。

孫が生まれると、そんな思いが益々嵩じて来た。祖父さんがどんな人間だったのか、例えつまらない人生でほとんど意味がないような人生だったとしても、なんだかまるで存在しなかったというのは寂しかった。

そこで、ブログを書くことにしたのだ。

だから、私のブログには、昔の思い出が多い。

この歳だから、未来への生産的な展望はない。

現在は不満の対象だし、未来はもう手には入れても仕方のないもの。あるとすれば、つまらない未来しかない。

だから、いきおい、ブログの内容は過去へ過去へと遡る。

不思議なもので、すぐに浮かんで来る思い出を書き終わると、とっくに忘れていた思い出が、その下から滲み出て来る。今まで、こんなことには気づかなかった。

思い出をいくら書き並べても、そんなものは自己満足にすぎないと言われれば、反論のしようもなくその通りなのだが、今しばらくは、心の奥底に溜まっている記憶の数々を引きずり出して、我が人生を確認して行こうと考えている。

子供たちや孫たちには、馬鹿な祖父さんだったなあ、と呆れられるかも知れないが。