本郷と東大を歩く
昨日3月10日は、東京大空襲の被災の跡を訪ねて、仲間たちと本郷の東大周辺を歩いて来た。
10時半に東大赤門前に集合し、最初の目的地である「わだつみのこえ記念館」に向かった。今日は曇り空で、どんよりとした空が広がっていて、かなり寒く感じられる。
「わだつみのこえ記念館」は、赤門から5分も歩けば到着する。マンションの1階が会館の入り口になっている。
今日は休館日なのだが、無理を言って開けてもらったのだ。
こんな場所にこんな施設があるのを初めて知った。
学徒出陣でお亡くなりになったかたがたの遺書だけが展示されてあるのかと思っていたが、大きな勘違いであったのに、すぐに気付かされた。
生きていたら死んだ親父と同じ歳になる戦没兵の手紙や手記も所狭しと展示されているのだった。
午前中は、ずっと「わだつみのこえ記念館」にいて、昼食も記念館一階のテーブルをお借りして、ファミリーマートで買っておいたおにぎりとサンドイッチを食べた。外は寒かったので助かった。
12時半に、再び、赤門の前に集まり、午後のコースに出発する。
まず、「麟祥院」という禅宗のお寺を訪問する。このお寺には、寛永年間に建てられた春日局の墓所が残っている。
また、境内には「大震火災横死者之碑」という関東大震災で亡くなった方々を悼む石碑があるだけでなく、中華民国からの留学生の慰霊碑が建立されており「中華民国留学生癸亥地震遭難招魂碑」という銘が刻まれている。
この地域に中国からの留学生がたくさん住んでいたという証拠なのだろう。
次に訪ねたのは、本郷尋常小学校の跡地で、隣の東京帝国大学は米軍が攻撃目標から除外していたので焼けずに済んだのだが、庶民の通う小学校は考慮されずに1945年3月10日の東京大空襲で焼夷弾の攻撃に遭い焼失してしまった。
小学校のあった場所は、現在、「文京総合体育館」「湯島地域活動センター」となっており、「特別区民税・都民税の申告はお早めに」という看板が入り口に立て掛けられていた。
赤門を出発して、東大をぐるりと回り弥生門から再度、東大構内に帰ってくるというコースを辿っていると、鉄門の前に到着した。
東大医学部付属病院の前にある門である。
門の前から下に続いていく坂が、無縁坂である。このまま坂を下っていくと、不忍池に突き当たることになる。右の赤塀は旧岩崎邸の外壁である。
無縁坂を下って、左に曲がって道なりに進んでいくと、「東京大学医学部戦没同窓生の碑」の銅板レリーフをはめ込んだ壁が現れる。見ると、やはりと言うか、戦争末期に南方戦線や沖縄で戦死をした学生が多いことがわかる。
東大には、学校が建てた戦没学生を悼む碑はない。それだけでなく、学内に有志が建立するのも許可していないようである。「東京大学医学部戦没同窓生の碑」も医学部鉄門倶楽部有志が建てたということが記されていた。
なぜ東大は、学徒動員で戦死した学生の追悼碑を学内に学校として建てないのであろうか。
「東京大学医学部戦没同窓生の碑」のレリーフのすぐ横が、竹下夢二の美術館になっていた。大正ロマンと戦没学生の取り合わせは、なんとも切ない感じがする。
弥生門から再び、東大の構内に入った。
工学部棟が並んでいる前を安田講堂の近くまで歩いていき、近くの棟に入ってトイレを借りた。変な話だが、東大に来るといつもトイレを借りてしまう。
安田講堂。この入り口の柱の崩れ具合はどうなっているのだろう。昔の東大闘争の傷跡というわけでもないと思うのだが、修理はしないのだろうか。
安田講堂の前は、若者たちでごった返していて、なんだろうと思って見てみると、なんと今日が合格発表の日だったらしい。
東京大空襲の日に合格発表をするというのは、なにか考えがあってのことなのだろうか。
ともかくも、日本一難しい大学に合格したエリートなのだから、将来、悪辣な政治家や官僚にはならないように願うばかりだ。
三四郎池で、池に突き出している石の端まで行くと、鯉がたくさん寄ってきて餌をねだる。その数、10尾以上。少し怖くなって引き返して来た。
東大の正門に続くメイン通りには、東京帝国大学の銘を入れて鋳造されたマンホールの蓋がはめ込まれている。真ん中の「電」という文字は分かる。電線でも通っているのだろう。
しかし、この「暗」という字は、何を意味するのだろう。暗渠? しかし、すべてのマンホールは、暗渠だろうと思うが。よく分からない。
正門近くに、東京大学教職員組合の立看板が出されていた。改正労働契約法によって、5年非正規で更新してきた労働者は、正規雇用(無期雇用)に転換しなければならないという措置が、今年の4月から実施される。それに向けての注意喚起が書かれている。
国立大学も独立行政法人になってしまったので、職員は国家公務員という身分ではない。大学も、身分の不安定な非正規職員が多いのだろう。
正門を出て、道を渡ったすぐのところに、東大におけるもう一つの戦没学生の追悼碑がある。碑には「天上大風」と大書されている。良寛の筆であるらしい。もともとは、空高く風に煽られて浮かぶ凧の有様をこのように表現したらしいのだが、戦争で死んだ学徒たちの追悼というふうに考えると、空高く安らかであれと祈るばかりだ。
この碑の建立も医学部の有志によるものだ。
東大を後にしてからは、菊坂を通り樋口一葉の旧居を訪ねるなどして、春日町に到った。途中、文京シビックセンターの大きなビルが現れ、あまりの変わりように開いた口が塞がらないほど驚いてしまった。後楽園に来たのは、何十年ぶりだろうか。
富坂を登ると、左に東京都戦没者霊苑があった。このような施設があることを、恥ずかしながら知らなかった。開館時間には間に合ったのだが、どういうわけかもう閉まってしまっていた。土曜日の閉館は午後5時なのだがなあ。
駅前に戻ると、後楽園のジェットコースターなのか、ビルの屋上で宙返りをしていた。