労働生産性なんて!

参議院予算委員会で、民進党の大塚委員が、労働生産性を上げることの例として、スーパーのレジ打ちを参考に上げて、感想を安倍首相に尋ねていた。

レジ打ちのスピードが、いくら早くなったからといって、客の数が増えなければ、スーパーの売り上げはあがらない。つまり、給料が上がって購買欲が高まらなければ、いくらレジ打ちのスピードが上がってもダメなのだというのが、大塚委員の例示の意味だったのだが、それに対して、何を勘違いしたのか、とても良い例だと言って補足するように、安倍首相が以下のように説明したのだ。

レジの前に沢山の客が並んでいて、レジ打ちのスピードが倍の速さになれば、売り上げもあがり、その結果、レジ担当者個人の生産性も上がるということになるだろうと。

そんなことは、当然のことなのだが、安倍首相は何が言いたかったのだろか。レジ打ちのスピードが上がることを、おそらく単純に良いことと認識しているから、こんなふうに言うのだろう。レジ打ち担当者が、レジ打ちのスピードを上げなくてはならず、フラフラになり、挙句にもしかすると、腱鞘炎になってしまうかもしれないことなどは考えてもいないのだろう。

なるほど、政府の言っている労働生産性の向上とは、こういうことだったんだと納得した。働き方改革にしろ、裁量労働制にしろ、労働者個人の生産性を今よりも高めるのが目的なのだ。

これは大変なことになるに決まっている。労働者をロボットのように、効率よく働かせようということなのだ。一般労働者の場合、決められた時間内で、目一杯働けということだ。また、高度プロフェッショナル制度が適用される労働者の場合は、無限定に目一杯働けということなのだ。

これでは、過労死の問題を解決できない。むしろ、過労死奨励策ということになってしまう。

のんびりとゆったりと、自分の人生を楽しむために働くという豊さは、単なる夢想ということになってしまうのだ。

植木等がドント節で歌ったように、サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだと、今の時代は歌うのが憚られるようだ。

労働生産性の低い者は、生きているのが認められないような無慈悲さを感じてしまう。

仕事を怠けて、営業時間中に映画を見に行ったり、喫茶店でコーヒーを飲んだりする怠慢が、どこかで許される社会であって欲しいと思う。