幻のナンシー演劇祭

1970年の4月半ばのことだったと思う。文学部の教授でフランス文学の翻訳家として名の知られていた安堂信也が、一通の手紙を持って劇団「自由舞台」のアトリエを訪ねて来た。

その手紙は、フランスのナンシーから届いた演劇祭への招待状だった。

安堂信也は、ノーベル賞作家のベケットの前衛的な戯曲「ゴドーを待ちながら」などの作品やアントナン・アルトーの異端の演劇論「演劇とその形而上学」などを翻訳して日本に紹介していた。

 

その安堂信也が、なぜ学生劇団「自由舞台」のアトリエを訪ねて来たのかといえば、彼が「自由舞台」の顧問をやってくれていたからだった。

私はといえば、安堂信也の名前は知っていたが、まさか「自由舞台」の顧問をやってくれているとはその時まで知らなかった。

 

お目にかかったのはこの時が始めてだった。

長身痩躯のダンディな、まさしく前衛的なフランス文学そのもののようなお姿を目にして、大学に入ったばかりの小僧は大いに感激したものだ。

 

集まった劇団員の前で、安堂信也教授は取り出した手紙を広げると、書かれている内容を話し始めた。

フランス語の文面をスラスラと読み上げながら、逐一翻訳して私たちに伝えてくれた。

内容もさることながら、ミーハーな私は、そのさりげなくフランス語を話し翻訳する様子に驚いてしまった。こんな人がいるのだ、と。

 

さて、手紙にはこんなことが書かれていた。

6月に(7月だったかもしれない。昔のことなので、細かいことは忘れてしまった)フランスのナンシーで演劇祭が行われる。例年行われていた国際演劇祭である。

この演劇祭に、過去の実績から学生劇団「自由舞台」が選ればれたので招待するというのであった。日本からは唯一「自由舞台」だけが選ばれたと書かれている。

ただし、旅費等は自分持ちという内容だった。

 

安堂信也から、この話を聞いた私たちは、しばらくの間興奮して、ナンシーに行くための方法を思いつくままに列挙したりしたものだ。

イカル号でウラジオストックまで行き、その後はシベリア鉄道を乗りついてパリに行こう。それが、一番安い方法だろう。それにしてもスポンサーを見つけなければ、行くことは不可能だ。よし、コカコーラに相談を持ちかけてみよう。コカコーラのマークを印刷したTシャツを着てフランスに行くのだ。

 

しかし、こんな興奮は、すぐに冷めてしまった。

いったい、ナンシー国際演劇祭に行って何を上演するのだ。何も上演するものがないではないか。1970年の4月、大学が始まったばかり、学園紛争でズタズタになってしまった「自由舞台」には、新入生を募集したものの、先の見通しなど全く立っていなかったのだ。

先輩たちも、ほとんどが前年までに「自由舞台」を去ってしまっていた。

日々の活動だって、暗中模索で、学生劇団の雄として君臨して来た曽ての面影などどこにもなかった。

スタニスラフスキー・システムは否定されて、時代はアングラ・小劇場運動の真っ只中だった。新劇が象徴している予定調和だとか、額縁舞台だとか、演出家だとか、劇作家だとか、戯曲だとかが、ことごとく批判の対象だった。

重要なのは、役者であり、即興であり、実存的な肉体であった。

演劇のメソッドを捜し求めて必死だったが、そんなものが簡単に見つかる訳もなかった。

 

結局、ナンシー演劇祭に行こうというエネルギーを持続することはできなかった。

4月に知って6月か7月までに準備をするというのも、こんな混乱した劇団内部の状態では不可能な話だった。

その上、先輩たちは、学園闘争の総括ができない心の傷を抱いたままで、やはり、どうしていいか分からず、何処かへ消えてしまったのだ。

 

今になって思う。あの時、何とかしてフランスを目指していたら、違った人生が待ち構えていたかも知れないと。