沖縄2日目

昨晩、泡盛の古酒が美味しくてかなり飲んでしまった。

そのせいで、今朝は辛かった。

辺野古に座り込みに行く前に、普天間基地から飛び立ったヘリが部品や窓枠を落とした宜野湾市にある保育園と小学校を見に行った。

去年の12月に1週間を置いて立て続けに、ヘリの部品が落下した場所である。保育園にはトタン屋根の上に小さな部品が、小学校は校庭で授業中の生徒たちのそばに8キロもの大型輸送ヘリCH53Eの窓が落下したのだ。

 

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保育園も学校もほんとうに基地のすぐそばにある。保育園は黒い布で覆った園庭の裏山の向こうが基地だということだし、小学校は校庭が基地のフェンスから50メートルぐらいしか離れていない。恐ろしいことだ。

 

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保育園では、園長を兼務している牧師さんが対応してくださった。

12月7日に厚いトタン屋根の上に金属製の部品が落下して来て、トタン屋根に少し凹みが出来てしまったとのことだった。その部品を手にとって匂いを嗅いでみると、なんだか懐かしい匂いがした。思い出してみると、牧師さんが子供の頃によく米軍基地で嗅いだ匂いだったそうである。

沖繩防衛局が来て部品を持って行ったが、米軍に照会しても部品を落としたヘリは確認できないという回答があったのみで、部品もまだ取りに来てはいないそうである。自分たちは何も落としてはいないのだから回収する部品もないということなのだ。

 

園長さんは普天間基地のある宜野湾市のことも説明してくれた。宜野湾市のあたりは昔から豊かな土地で、今、普天間基地のあるあたりは大きな松並木が首里に至るまで続いていたということである。中心には村の役所や郵便局や商店があり民家がたくさん建っていたとのこと。

米軍は沖縄戦宜野湾市を占領すると、住民のいない間に松並木を伐採して、すぐに飛行場を作り始め、結果、それが今に続いているということだ。

 

保育園の園児というと、人生で一番素直で可愛らしい時だ。

その子たちを事故と隣り合わせにして、国家が平気なままでいる。

 

事故後、無名電話が頻繁にかかって来て対応に苦労したたことも話してくれた。ほとんどが保育園を非難する電話で、沖縄の人ではないアクセントの方が多かったそうである。被害に遭った保育園を非難して、加害者である米軍を擁護するために電話を掛けてくるとは、頭がどうかしているとしか思えない。人間として情け無く、どうしょうもなく恥ずかしい。

 

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 普天間第二小学校は、学校の外側から中を覗いただけ。小学生の女の子が教室から手を振ってくれた。授業の邪魔をして先生に迷惑をかけてしまったのではないかと心配である。

小学校のすぐそばも普天間飛行場だ。驚くべき近さ。

 

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 辺野古に行く途中で普天間基地を俯瞰するために道の駅の展望台に立ち寄った。

 

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改めて思う、米軍基地はなんていい土地に作られていることだろうと。敗戦後の占領下で、沖縄の土地を接収して、日本が単独講和してからも返還せず、不法に占拠し続けている。 

 

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その後、辺野古のキャンプシュワブ前で座り込みに参加した。

今日は、500人行動の2日目だ。

 

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県機動隊の規制は、前よりも強く高圧的になっている。

 

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午前中、私たちが到着して座り込みの場所まで赴いた時、ひと騒動があった。何人かが機動隊に拘束されて、鉄格子の中に囲まれ、装甲車の排ガスを浴びせられているような事態に陥っているという。

 

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ハンドスピーカーで放送が入った。拘束された人たちを解放してもらうよう交渉をするので、ひとまず、全員テント小屋の方に引き上げるようにというのだ。

 

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参加者、640名と発表される。その後700名を超えたとの報告があった。
私が今までに参加した中で、一番人数が多い。

 

午後、ダンプカーの運び入れを阻止するべく、再び、装甲車の前に座り込みを開始した。私も参加する。


機動隊は、座り込みの後ろに並んで立ち、背後から規制に入るような動きを見せていた。

私の後ろ、機動隊のすぐ前に座っていた女性たちが、なんども機動隊員に声を上げる。わざと押さないでくれ、靴で背中を蹴らないようにしてくれと叫ぶ。

機動隊は背後に立って、座っている我われを徐々に道路前方に押し出そうとすかのようである。


山城博治さんが、後ろから襲うような卑怯なことをしないように機動隊に呼びかける。
こんなやり方は初めてなのだそうだ。

 

後ろの女性が、私に場所を代わってくれるように頼んできたので、場所を代わった。機動隊のすぐ前だ。腰椎骨折後、未だ後遺症のある身としては、蹴られたらたまらない。押されたとしても背骨は悲鳴を上げてしまうに違いない。二度と立ち上がることができなくなるかも知れない。

女性と代わるのじゃなかったけれど、拒否することもできないし、こんな時はシンドイ。

午前中に拘束されていた方たちは、交渉の結果解放されたとのことだった。

1名が逮捕されたとのこと。

 

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私は時間の関係で、座り込みから抜けた。背骨の不安からも解放された。

仲間は、3人がさらに座り込みを続けるために残った。


私が退去した時点では、ダンプの運び入れは午前中だけで済んでいたが、その後はどうなったのだろう。運び入れが阻止されたことを願わずにはいられない。

 

辺野古から帰る途中、大浦湾から埋め立て側が見られる浜に立ち寄った。湾には、またしてもオレンジ色のブイが、今までに見た以上に長々と海面を取り囲んでいた。

 

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その後、私だけ仲間と別れて、久しぶりに名護を訪れた。当日は、名護に泊まる。

 

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