比嘉のこと

大学に入学したら第2外国語の選択でクラスが決まっていた。フランス語を選択した私はO組だった。

入学して直ぐの時期に、クラス会を大学近くの蕎麦屋か居酒屋でやった記憶がある。大学から1万円ぐらいの補助が出た。

今は、大学生でも20歳になっていないとアルコールは禁止だが、当時は、大学生は酒に関しては大人の扱いだった。

比嘉には、その時には出会っていない。出会ったのは1年後のことである。

私も、大学の授業は、ストによる封鎖で休講が続いたりしたことをいいことに、ほとんど出席せず、部活にばかり精を出していた。

そのせいで、単位をいっぱい落としてしまい、1年後、落とした科目を再登録することになってしまった。

クラスはO組だったが、クラスで共通して修得しておかなければならない科目も、ほとんど落としていたので、新しいO組で、新しく入学して来た後輩たちと一緒に授業を受けることになってしまった。

その時に比嘉に初めて出会った。

彼は私よりも酷い有様で、入学してからほとんど学校に来てはいなかった。だから、おそらく単位もほとんど修得していなかったはずだ。

 

比嘉は沖縄の出身だった。彫りの深い端正な顔立ちのスラッとしたいい男だった。

1年間何をしていたのか訊いたはずなのだが思い出せない。恐らく何もしていなかったのだろう。

何もせずに、ずっと本に没頭していたのだと思う。

時々、学資を稼ぐためのアルバイトもしたはずだ。

何もしないこととアルバイトをすることは、矛盾しているようだが、当時の私たちの感覚で言えば、矛盾ではなかった。働くことは単なる手段にすぎなかった。人生にとって重要なのは文学なのであって労働ではなかった。

留年生同士何人かの薄い付き合いが、それから始まった。

比嘉は確か椎名町の姉の家に下宿していた。ある時、家に招いてくれたので訪ねて行ったことがある。

彼の部屋は二階にあり、ベッドと引き出しの付いたタンスが置かれてあった。だが寝ている場所は、ベッド横の床の上だった。なぜなら、ベッドの上は積み重なった本で占領されていて、とても寝られる状態ではなかったからだ。

その上、タンスの引き出しの中にも本がぎっしりと詰め込まれていた。

本の重みで二階の床が曲がっているというので、姉から出ていくように言われていると話してくれた。

ベッドの上からサルトルの『存在と無』の英語版を取り上げて、もう、何回も読んでいると言っていた。あまりの凄さに驚いたものだ。ただ、仏文科希望だったのに、フランス語の原書でなかったのが、少し残念だった。

その日は、夕方からスナックでバーテンのバイトがあるというので、スナックの前まで行って別れた。

 

まだ、沖縄が返還される前で、琉球政庁発行のパスポートのようなものを持っていた。

帰省はサンフラワー号を利用していた。

沖縄にまともな大学なんてないというのが、彼の東京に出て来た理由だった。

専門課程に進めなかったら、大学はやめるしかないと言っていたが、結局、1年遅れても進級できず、大学から消えてしまった。

その後、一度も会っていない。

何をしているのだろう。もう、死んでいるかもしれないと時々思う。