「ビートたけし」への一考察

昨日からテレビのワイドショーで、オフィス北野の騒ぎを伝えているのを聞いているうちに、「ビートたけし」のことと「たけし軍団」ということについて考えてみたくなった。

大げさな言い方になるけれども、ビートたけしが、今の日本人の精神構造に与えた影響というものは、かなり大きなものだったと思う。

それは、プラスの面ではなくマイナスの影響としてだ。

 

ビートたけしが、一番面白かったのは、ツービートとしてきよしと漫才コンビを組んでいた時だ。

あの頃のたけしの反社会的な毒舌は、本音で語られるものだから、世間におけるうわべの礼儀正しさや社交儀礼のウソを見事に突いていて、聞いている者は喝采したものだ。

わたしは、自分がアマノジャクでへそ曲がりだったので、たけしのそんなところにはかなり影響されたと思う。

 

ただ、その後のビートたけしには、あまり共感を覚えない。

特に、TBSの緑山スタジオで収録されていたたけし軍団のお笑いは、そのスペクタルの壮大さとは裏腹に、そこに流れていた思惑のようなものが、人間への愛情にまったく欠けていて、情けなくなったものだ。

大げさに言えば、人間の尊厳を傷つけて、笑いを取る方法の満載だった。

こんな番組を見て、笑い転げる視聴者も視聴者だったが、視聴率を稼げるからといって、良識も何も無視して番組を作り続けた放送局の罪も重いものがある。

裸のまま熱湯に入ることを強制して、熱くて跳び上がる様を、周りで面白がって囃し立てるというようなことを、当たり前のように放送していた。

 

当時、少年だった人たちは、今、40代から50代になっている。

今でもテレビのバラエティ番組で見かけるこのような笑いの取り方に対して、その年代の人たちが、かなり不感症にさせられてしまったのではないかと心配になる。

35年ほど前、障害を持った人や周囲から浮いた内気な人たちに対するいじめが、そこらじゅうの学校で発生していた。その後も改まるどころか、今も慢性的に続いている。

人間が持っている、自分より弱い者に対する差別意識が理性的に制御・抑制されるのではなく、ビートたけしたちによるお笑いによって積極的に肯定されるような形で、当時の少年少女たちの心の中に入り込み、その精神形成に何がしかの影響を与えたような気がしている。

差別と暴力を否定しながら、一方で傍観者として差別と暴力に加担するようなことをしてしまう精神構造。

下手をすると、差別を受け暴力を振るわれ怯えてオロオロしている人を見て、笑ってしまう自分をなんとも思わない精神構造。

 

たけし軍団のお笑いの流れは、ダウンタウン松本人志浜田雅功などの笑いにつながって、今に続いている。

弱者をいじめ抜いて笑い飛ばすという笑い。

 

ある時から、ヘイトスピーチが大手を振って現れた。

在日韓国朝鮮の人たちを攻撃し、日本に来る中国の人たちを嫌う。

自己責任だと言って、生活保護受給者を攻撃する。

常に相手より強くなければ気が済まない、裏返せば、相手に弱く見られるのは恐ろしくて仕方がないという心理状態。

すべて「ビートたけし」や「たけし軍団」が、肯定して補強してきたものなのではないか。

 

今、たけしは大御所然として、芸能界に君臨している。

つまらない映画を作っただけなのに、世界は騙されて、ヴェネツィア国際映画祭では金獅子賞を勝ち取り、フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章まで授けられた。

誰も批判などしないのだろう。

しかし、おだてる必要などない。わたしには老害の極みにしか思えない。