背が高くないこと
先日、駅で電車を待っていたら、中学生たちが、ゾロゾロとプラットフォームに溢れて来た。
不思議に思っていたのだが、やはり尋ねてみることにした。
何かあるの?
すると、中の一人が楽しそうに大きな声で
中学校の合唱コンがパルテノンであるのです!
と答えてくれた。
それで得心したのだが、乗った電車の中でこんなことを思った。
背が低いといいこともあるのだ。あの中学生も、大きな男に尋ねられたら怯えて、ろくに声も出なかったかもしれない。私のような小ぶりの男に尋ねられたから、安心して返答できたのだ。
してみると、背が低いのも大きな利点があるではないかと。
妻に話すと、そうだよ。気づかなかったのと言われた。
最近は、大きな若い人が増えて、電車の中でそんな人たちに囲まれると、まるで谷底にいるような惨めさを味わっていたのだが、少し救われたような気持ちになった。
以下は、屁理屈である。
大きな人間は、環境問題を考えると存在自体が悪である。
大きいから服も大きくなければならない。一般的に食べ物の量も多い。食料問題を考えるとマイナスでしかない。
家も大きくなければならないし、車も大きい必要がある。軽自動車で十分なのに、大きな車に乗らざるを得ない。
ホテルに泊まっても、普通のベッドだと足先が出てしまうから大きなベッドが必要だ。
挙句に、棺桶だって大きくなければならない。
ところが、地球の大きさは限られているのだ。
だから、大きなことは、地球資源を食いつぶすことにつながる。
人間の大きさが、今の半分になれば、どんなに地球は広く感じられることだろう。
誰か人間を小さくする方法を発明した科学者がいれば、きっとノーベル賞に値するはずだ。
春になって桜が咲く季節になると、いろんな考えが浮かんで来る。