寺山修司について

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手元に残っていた「邪宗門」のチケット

急に寺山修司のことを思い出した。

渋谷公会堂で劇団天井桟敷の「邪宗門」という劇の公演があった。

開場時間が来ても、公会堂のガラス扉が開かず、前に並んでいた観客が騒ぎ始めた。そのまま、扉を無理やり押し開けるような状態で、列を作って並んでいた観客たちが雪崩を打って入場し始めた。来た順番にちゃんと並んでいた人たちは、押しのけられ跳ね飛ばされて、順番など全く意味をなさないことになってしまった。

私は列の後ろの方にいたので、得をした状態だった。流れに任せて場内に入ると、なんと劇はすでに始まっていたのだ。

舞台上では、おどろおどろしい舞踊が、太鼓の音と一緒に繰り広げられていた。

もっとも、昔のことなので、確かなことは、もう、あやふやである。

その会場でやっと席に座り、目を上に向けると舞台上部の張り出しに男が立っていた。場内の混乱を睥睨しているような感じだった。寺山修司だった。背広姿のでっぷりとした大きな男だった。

こんな大男とは思っていなかったので、かなりびっくりした。

寺山修司を知ったのはいつのことだったのだろう?

高校時代にテレビで、よく競馬の解説を見ていたかもしれない。

カルメンマキが出て来たころ、彼女が天井桟敷の女優だったことを知っていたし、天井桟敷寺山修司が主宰している前衛的な劇団だということも知っていた。

ハプニングを重視し、街全体が演劇の装置・舞台と主張して、現実の街のいたる所でパフォーマンスを行う演劇集団だと思っていた。

「書を捨てよ、街に出よ」という本も高校生の時に読んだ。

そのせいで、近江を捨てて東京に出て来たわけではなかったが、家を出るに当たって少しは影響を受けたかもしれない。

文芸誌「海」にル・クレジオとの対談が載っていた。東北弁丸出しの寺山が、フランス語が喋れるのか疑問だったから、まるで二人だけで会話を交わしているような文章には、読んでいるあいだ中ずっと違和感がまとわりついていた。

その中に、こんな箇所があった。

寺山がル・クレジオに、文章を書くとき、どんな所で書くのかと訊ねる。浜辺に寝そべりながら書くことがあるのかと。するとル・クレジオは、書斎の中ではなくどこででも書くのだ、浜辺でもと答える。すると、寺山も自分もそんなふうにして書いているというようなことを言う。

ル・クレジオは自然な感じがしたけれども、寺山のケレン味は、ちょっと形容の仕様がなかった。

母親のことも、さんざん悪く描いていた。子供の自分を捨てて家を顧みず、男遊びばかりしていた女というように書かれていたように記憶している。

映画「田園に死す」も、母親はそんな感じだった。

1970年のころ、新宿の花園神社で寺山修司天井桟敷唐十郎の赤テントが乱闘騒ぎを起こした。あれは、どういう顛末だったのだろう。

寺山の戯曲全集も持っていた。持っていただけで、中身はほとんど読まずに売り払ってしまった。

なんだか気になって仕方がなかったのだ。でも、真剣に読もうとはしなかったようだ。

戯曲作家寺山修司という絶対的な存在を中心に置くドラマツルギーが気に入らなかった。本人が一番攻撃していた近代演劇を、寺山修司自身が乗り越えてはいなかったように思えた。

影響を受けたといえば、どんな歴史もフィクションに過ぎないという言葉には、感心した覚えがある。その後の歴史の見方が、ずいぶん変わったし、楽になった。ただ、寺山が自分で考え出した言葉ではないだろう。誰が言った言葉なのだろう。

私の青春時代が終わって、しばらく寺山修司は消えていなくなったようだった。そのうち、デバガメとして一時ニュースになったが、こちらが仕事で忙しくなったころに、死んだというニュースが流れてきた。

若い時からネフローゼを患っていたので、それが嵩じたせいだろう。享年47歳。

なんで、今ごろ寺山修司のことを思い出したのだろう。不思議な感じだ。

寺山修司でなく、あの時代が懐かしいのだろうか。

マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや

敗戦から遠くない時期の作品。

「祖国」には気をつけないとね。哀愁とか感傷に繋がる言葉なのだから。

大時代で、下手をすると危ない言葉になってしまう。